千代寺院跡出土瓦【市指定文化財】

かつて、市内千代に存在した千代寺院跡から出土した瓦のうち、市の指定文化財に登録されている16点を紹介します。
小田原市の東側、永塚・千代・高田の低台地上は千代台地とも呼ばれ、原始・古代の遺跡が広がっています。奈良・平安時代には相模国足下郡の中心地域として、郡の役所である足下郡家や千代寺院が建てられたほか、水陸交通を介した東西交流の結節点として栄えました。
千代周辺から古瓦が出土することは、江戸時代にはすでに知られており、江戸時代後期に編纂された『新編相模国風土記稿』にも「地中ヨリ古瓦。布目アリ。ナド出ルコトマゝアリ」と書かれています。発掘調査の結果、千代寺院は地方支配の拠点的な役割を果たした寺院で、8世紀初頭から10世紀頃まで続いていたと考えられています。
郷土文化館で所蔵している千代寺院跡出土の瓦は、破片も含めると800点以上にのぼります。調査の年代が判明している資料は少ないですが、昭和24年に千代中学校の敷地を埋め立てるための土取りを行った際に採集されたもの、翌26年や33年の発掘調査で出土したものなども含んでいます。
このうち、鬼瓦や文字瓦を含む16点が、関東地方の古瓦を考える上で重要であることから、平成18年に市指定文化財に登録されました。 ▶ 指定文化財のページへ移動
 

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No.10 鬼瓦

鬼瓦

鬼瓦

鬼瓦は瓦葺き建物の屋根の大棟などの端部に葺かれ、雨水の侵入を防ぐ役割を果たしています。8世紀以降には官衙(現在の役所)建築などにも広く用いられるようになり、邪気を払い、福を招く思想から、鬼面文や獣身文の鬼瓦が主流となっていきます。本資料は昭和26年2月5日に千代中学校で発見されたことが裏面に墨書きされています。年代としては、千代寺院の創建期(8世紀初頭頃)から再建期(9世紀後半代)にかけての資料と推測されます。
武蔵国分寺から出土した鬼瓦と同笵関係(同じ笵=型から作り出された)にあるとされており、さらに瓦の表面に見られる笵傷のありかたから見て、相模国から武蔵国へ笵が移動したのではないかと考えられています。
 

No.11 文字瓦

文字瓦

文字瓦

焼成前に文字をヘラ書きした平瓦で、それぞれ「石田一斗加沙八升」と解読できます。鬼瓦と同じく、創建期(8世紀初頭頃)から再建期(9世紀後半代)にかけて作られたと推測されます。
 石田」は粘土、「沙」は砂を意味し、“粘土一斗に砂を八升加える”という、瓦を作る際の粘土と砂の比率を示すと考えられていますが、近年、この文字の解釈について、従来「一斗」と読んでいたものを「一斤」と読む説が新たに加えられています。

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