第3章 積小為大
「なあ、ヒサ。定五郎をどうしべえか?」
夜業を終えて一服している時、鉄五郎が言った。
「どうしべえって、高等小学へあげることけえ」
「うん」
「そりや、あげてやると言えば喜ぶよ、きっと。自分じゃ一言も言わねえけど―」
「少し分に過ぎやしめえかなあ」
卒業式のその日から、二人は定五郎を高等小学校へあげようかどうしようかと迷っていた。
尋常小学校の就学でさえ満足には行われなかった頃であるから、高等小学校へ進むなどということは余程のことで、まして水呑百姓の家ではほとんど問題にもされない事柄であった。事実、千代小学校の学籍簿をみると、明治22年度の小学校卒業生、男60名、女25名に対して、それから4年目の26年度の高等小学校卒業生は男19名、女1名となっている。つまり定五郎の同級生で高等小学4年の課程を終えた者は、4分の1にも足りない少数であったのである。
「出来がいいから、無理でもあげたらどうかって、先生もおっしゃってるだが―」
ヒサが言った。
「先生、そう言ったか」
「これからは百姓だって学問がなきゃ駄目だって―」
「うん、そりやそうだ」
鉄五郎はしばらく腕を組んでいたが、
「もう一奮発して、やれるだけやってみるか!」
定五郎はこうして高等小学校へ入れて貰ったが、10月に四女のツナが生れると、眼に見えて欠席の日が増えていった。
ある大寒の夜更けのことである。駐在巡査が鉄五郎の家の前を通りかかると、戸の隙間からランプの明かりが洩れている。こんなに遅いのにと不審に思い、戸を叩いて中へ入ると、鉄五郎が一心不乱に夜業をやっている。
「精が出るな。しかし、もうおそいから休んだらどうかね」
巡査が言葉をかけると、
「これだけの人数を食べさせるには、まだ寝るわけにはいかねえです」
と鉄五郎は障子の方へ眼を走らした。
巡査がそうっと障子を開けると、なんとそこには六人の子供の頭がずらりと並んでいた。巡査は呆気にとられ、黙って出て行った。
鉄五郎がこれほどまでに努力しても、所詮は無理だった。定五郎は1年通っただけで、高等小学校を断念した。
退学後、定五郎は父を助けてもっぱら耕作に従事したが、15、6歳頃からは他所の田畑にも雇われて行くようになった。よく虎吉という青年と一緒に頼まれた。が、田を耕しても、肥桶をかついでも、虎吉の仕事には到底追いつけもしなかった。年令も身体も違うのだからと思っても、それでもなお自分の非力がはずかしく、早く一人前になりたいと思うことが度々あった。
冬になると山へ薪をとりに行く。これがまた大変な仕事だった。矢作のように平野の真中にある村では、燃料にする薪は近くでは得られないので、どこの家でも箱根の外輪山まで出かけて行って、とってくるのが普通とされていた。場所は湯本の台の茶屋の裏山であった。矢作から台の茶屋までは往復20キロメートル以上もある。近所同志誘い合って出かけるのは大抵午前2時頃で、幾台もの荷車の音をガラガラと凍る夜空にひびかせて行くのである。東の空が白みかける頃山について、まず二荷ばかりかつぎ出してくると夜が明ける。そこで弁当を食べ、さらに薪を切り出す。車に山と積んで帰ってくるともう夕暮れであった。これが毎日の例であるが、これほど骨の折れる仕事はなく、第一眠る間のないのが辛かった。
定五郎の労働はこれだけではなかった。農が暇になると、多古の河原へ出かけて行って、もっこで砂利を運ぶ賃持かつぎをやった。一日男20銭、女15銭という安い賃銭であったが、たとえ僅かでも日銭が入ることは、それだけでも有難いことに思えた。
昼休みで、みんなゴロゴロ河原に寝そべっていた時である。
「ああ、何かいい仕事はないかなあ」
定五郎はゆうゆうと流れて行く雲に向ってつぶやいた。
「オイ、あるぜ」
頭の上で声がした。3日ばかり前から来ている青年である。
「長持運びだよ。やる気があるなら一緒にこねえか」
「何処だい、そりや―」
「なんでも、箱根の離宮へ宮様がお出でになるんだそうだ―そのお荷物よ。たった一日だけど日当は割がいい―」
定五郎は即座に連れて行ってくれと頼んだ。
国府津で車に荷物を積んで、先棒、後押しの二人組で運ぶのだが、箱根の山坂にかかるとさすがにこたえる。前の車はへッチヨヘッチヨとかけ声をかけながら事もなげに登って行く。むかしの雲助というのはこういうのかも知れないと驚いたが、定五郎は何くそと負けじ魂を奮い起して、とうとう頑張り通した。
「お蔭でたっぷり日当を貰いました―それからこんなこともありましたよ」
と定五郎翁は話すのである。
「やっばりお金が必要だから、米を時々売りに行きました。井細田あたりにさしやというのがいてね。さしで米を抜かれてさんざんな眼にあったことも度々ありました。ある時などはどうしても売れないで、車をひきひき前羽の押切まで行ってやっと売ったこともありましたっけ。車を引いて行く途中、呉服屋の店に何にもしないで座っている小僧などをみると、わが身にひきくらべてとてもうらやましかった。呉服屋の小僧には、小僧の辛さがあるとわかったのは、それからずっと後のことでした」
定五郎がどれだけ働いても、こう家族が多くてはとても人並みな暮しはできなかった。その頃、定五郎の家は矢作部落30戸のうちで一番貧乏だったようである。
働きづめの生活の中で定五郎は時々考えにふけることがあった。一体この苦しい生活から抜け出すにはどうすればいいのか。ただ働いているだけでは駄目だ、と思う。
すると志摩校長の
「今まで百姓には学問はいらないと言われてきたが、それは間違いだ。人は誰でもどんな職業についていようと、まず立派な人間にならなければならん。人間になるには一生かかる。だから勉強も一生だ。いいか、みんなしっかり勉強するんだぞ!」
と言った訓辞が思い出されるのである。そうだ、この文明開化の世の中に学問を怠ればどんどん落伍者になってしまう。勉強しなければいけない。なんとかしてもっと勉強したい―そういう欲求が定五郎の頭の中に湧きあがって、ぐるぐる渦を巻くのである。
その頃、成田の成願寺の住職に三輪円龍という人がいた。高潔な人格と豊かな学識とで、檀家ことごとくが心服するという、いわゆる名僧知識であった。みなし児をみると寺へひきとり、あるいは上級学校へあげ、あるいは職につけて、それぞれに身の振り方を考えてやることを楽しみにしていたという。また子供や青年のために塾を開き、その指導育成にもつとめていた。講義で毎夜遅くなるにもかかわらず、朝はきまって4時に起きて勧行を始める。その影響が昼に及ぼすのはあたりまえで子供たちに勉強させているうちに、いつの間にか居眠りをして、しかもよだれを流す。それをみると子供たちは嬉しがって、勉強をほうり出し、どこかへ遊びに行ってしまうという具合であった。そういう瓢逸さにも魅力があったのであろう、相当遠くの青年たちも夜学にやってきていた。
定五郎は2、3人の友達と相談して成願寺の夜学に通うことにした。仕事が終ると連れだって成願寺へ行き、2時間ぐらい講義を聞いた。四書、五経、日本外史、言志録、などの講義が主なものであったが、一度話がそれると政治、経済、文化とあらゆる面にわたってとめどがなくなるのである。しかし、その方が面白くもあったし、また為にもなった。そばが好きだったので定五郎たちはよく打って持って行った。そんな風で、三輪円龍と青年たちとの間には、師弟の関係を超えた親身な情さえかもし出されていた。
三輪円龍はまた、講義の間によく二宮尊徳の話もした。
「二宮先生の教えの中に『積小為大』ということがある。
大事を為そうと考えたら、小さな事を怠らず励まなければならない。小が積って大となるからだ。ところが小人はいつも、大きな事を望んで、小さい事を怠る。出来もせぬことにくよくよして、易しい事につとめない。それだから、いつまでたっても大きな事が出来ないのだ。これは大は小が積み重なって大となるのだということを知らないからだ。たとえば百万石の米でもその粒が大きいわけじゃない。どれだけ広い田を耕すのも、特別なやり方があるのではなくて、一鍬ずつ耕して行くから出来る。千里の道も一歩ずつ歩いて行きつける。山を作るのも一もっこの土からだ。こういうことをしっかり腹の中へ入れて、小さい事を一生懸命でやれば、どんな大きな事でもきっと成就する。
二宮先生はこうおっしゃるのじゃ。どうだその通りとは思わないか」
と円龍は青年の顔を見渡し、さらに「積小為大」の話を二つも三つも話した。そして、
「偉い人じゃ、偉い人じゃ!」と何度もうなずいた。
定五郎はこの話を聞いた時、なにか啓示を受けたような気がした。
後年、定五郎翁が「ステップ・パイ・ステップ」ということを生活の信条としたのは、この時の「積小為大」の思想が、定五郎の内部に深く根をおろしたからだったかも知れない。
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