第2章 小学生時代
明治18年4月1日。定五郎が千代小学校に入学する日である。
定五郎は、父が藁細工の稼ぎで作ってくれた新しい着物を着、真っ白い下駄を履いた。鼻緒がかたかったので、戸口の敷石に爪先をトントン打ちつけた。
「コラ、下駄が割れるぞ― 早くこい」
そう云って、鉄五郎はサッサと坂を上って行った。定五郎はあわてて父のあとを追った。
酒匂堰のふちの道は学校へまっすぐ続いている。よく晴れた朝で、雪の富士と青々とした箱根の山の色が眼にしみた。向うの田園の中の道を、定五郎たちと同じような親と子が歩いてきて、こっちの道へ出た。振りむくと、うしろからも二組、三組と新入生のくるのが見える。
定五郎は今まで夜業の合い間などに、時々父から字の読み方や書き方を教えられた。そしてその新しい字を石ころで地面に書いては覚えた。その勉強が今日からは学校でできるのだ。そう思うと自然に心がはずんだ。
「オイ、どうした」
鉄五郎が立ちどまってふりかえった。定五郎は父のそばへ走って行った。そのひょうしに紺の香りが強く鼻をうった。
千代小学枚はこの附近で最も古い学校である。明治5年に学制が公布されると、千代村外21ヵ村は連合村会を作り、明治6年6月、矢作村の春光院を仮校舎にあて、これを本校として九思館と称し、別に曽我原、永塚、田島に支校を置いて、小学教育を創めた。しかし矢作は学区の南端に片寄っていて、本校の近在地としては適当でないので、通学距離を実測して、学区のほとんど中央にあたる千代村蓮華寺境内に校舎を新築し、明治9年1月から千代小学校と改称したのである。
各村から通学する児童数は約700名。今年一年に入るものは80名ばかりであった。児童は校庭に整列し、父兄はそれをとりまいて、長谷川勝五郎校長の訓辞を聞いた。受持は延清から来ている金子金太郎先生ときまった。鉄五郎は金子先生に「よろしくお願いいたします」と何度も頭を下げた。
当時、日本の小学校教育はその形式、内容ともに一応整備し、文部当局も学事の奨励に努力したし、一方、国民の自覚も高まってきて、徐々にではあったが、健康な歩みを続けていた。ところが明治17年頃から経済界は不況に陥り、物価は低落し、金融は窮迫して、民間の困弊は実に甚しいものがあった。これは直ちに教育界にも反映して、17年以降小学校の数も在学児童数も逆に減少するという始末であった。
こういう事情の中で、定五郎が小学校へ入れたのは幸福なことであった。
洒匂堰の道を帰りながら、鉄五郎は、
「しっかり勉強するんだぞ」
と念を押すように言った。
堰沿いの道は往復3キロメートルもの道程であったが、定五郎は毎日元気に通学した。勉強好きは生来のものだったらしく、物覚えがよかったばかりでなく、本を読むこと自体が好きでもあった。だから家にいる時でも、片刻も教科書を離すことはなかった。しかし、そうは言っても、昼間は家事の手伝いがあったり、妹や弟の面倒も見なければならなかったから、勉強はどうしても暗い行燈(あんどん)の下でするより仕方がなかった。行燈のまたたきが本の上にゆらぐと、それに誘われて眠気が襲ってくる。定五郎は眼をこすりこすり頑張ったが、激しい疲れに抗しきれず、本の上にうつ伏せになって寝入ってしまうこともあった。
こんな風だから成績はもちろんよく、一年の終りには一等賞を貰ってきた。優等の免状を見て、父も母も「よくやった、よくやった」と喜んだ。
それから幾日か経って、鉄五郎は小田原からランプを買ってきた。
「これなら夜いくらでも勉強できるぞ」
そう言って鉄五郎はランプに火を点けた。
「ワーツ、デエ(奥の座敷)まで明るい、デエまで明るい!」
と子供たちは歓声をあげた。
二年に進級してすぐの4月7日に女の子が生れた。二女のハルである。
定五郎は忙しくなった。さすがの鉄五郎とヒサも定五郎を頼まなければやって行けなくなり、学校から帰ると、定五郎の分の畑仕事が待っているという風であった。定五郎は父親に似て年よりは身体も大きく、丈夫でもあったから、子供ながらも相当な仕事をやってのけた。農繁期に入ると、もう学校へなど行ってはいられなくなり、大人と同じように田圃へ出て行った。
両親の苦労が並大抵のものでないことをよく知っている定五郎は、それが身にあまるような仕事であっても、今まで決して辛いと思ったことはなかった。しかし、学校を休まなければならないということだけは何としても口惜しく、登校する友達の後ろ姿を田園からうらめしそうに見送った。
夕食がすむと、疲れた身体に鞭打って、ランプの下へ教科書を持ち出す。わからないところがあると、すぐ近所の上級生のところへ行って教えてもらう。というように、ひたすら学業の遅れをとりもどすことに努めたが、学校へ行きたいという気持はつのるばかりで、とうとうハルを背負って行くからということで、特に許しを得て登校したこともあった。
その上にまた、もう一つ困ったことが持ちあがった。それは米麦の貯えが心細くなってきたことである。その頃、大抵の家では米と麦との半々が普通であったが、定五郎の家では麦七分であった。それほどまでにしても、5、6月になると欠乏してくるのである。去年の収穫が少なかった上に、子供たちも食べ盛りになってきたこともあって、それが今年は一層ひどいようであった。
田麦の実がうれはじめると、定五郎は暇をみてはそれをとりに行った。「田麦は和名をみのごめという。水田、廃田あるいは溝中に繁茂する越年生草本で、5月頃、緑色の花をつける。頴果(えいか)は長楕円形、稍大形平滑緑色。賎民往々之を集めて食に充つ」とある。定五郎はこれを集めてきては、挽いて粉にし、団子を作った。田麦をとるために思わず他所の田へ踏み入って叱られることもしばしばであった。
こんな苦しい思いをしているような時でも、乞食がくるとヒサは何か恵んでやらずには居られなかった。
鉄五郎はそれを知って、
「米びつの中はからっぽだというのに、どこをおしたら施しができるんだ!」
と怒鳴った。
「だって可哀相だったよ―よろよろしていて」
「馬鹿! 恵んで貰いたいのはこっちの方だ! そのくれえなこたあ―」 鉄五郎がカンカンになって、なおも罵声を浴びせかけようとすると、ヒサは黙って子供を背負い、すいと戸外へ出て行った。
「また、おとっちゃんに叱られちゃったな。おっかなかったな」
とヒサは背中の子に言った。
鉄五郎が怒り出すと、ヒサはいつでもこうやってはずしてしまう。そして、怒りのおさまった頃を見はからって帰ってくるのである。
「お腹が空いたべ、今すぐ仕度をするよ」
何事もなかったという顔付きで、かまどに薪をくべるヒサをみては、鉄五郎も苦笑いをするより外はなかった。
鉄五郎をはぐらかすヒサのやり方はなかなか妙を得ていた。しかしそれは、ヒサに底意があってのことではなく、その並はずれた、お人好しで、情深くて、朗かな性格から自然に流れでるものであるらしかった。そして、そういうヒサの性情は、物質的な暗さの覆いかぶさるこの一家の精神的な支えとして、知らず知らずの間に、大きな役目を果しているもののようであった。
そんなヒサだったが、家計の切り廻しはなかなかうまかったようである。ヒサは毎日一番安い魚をかならず買って晩の膳に並べた。子供たちが身をきれいに食べてしまうと、骨もコンガリ焼いて、みんなでポリポリ食べるのである。ヒサに何か特別に深い考えがあったわけではないであろう。おそらく、海辺の村に生れたヒサには、魚のない一日など考えられなかった、という方が当っているかも知れない。しかし、ともすればタンパク質不足になり勝ちな農家の食生活の中で、毎日魚をとることをやりとおしたのはヒサの手柄といってよいであろう。そのためかどうか、子供たちはみんな丈夫で、風邪一つひく者もなかった。しかも、物日などには鉄五郎のためにも晩酌を工面した。深酒はしなかったが、元来酒好きな鉄五郎はそんな時には相恰(そうごう)を崩した。
ヒサがそうなら、鉄五郎も負けてはいなかった。鉄五郎は若い頃まんじゅう屋に年季奉公をしたことがあり、道具も持っていたので、何かの時にはまんじゅうを作った。菓子などは到底買って貰えない子供たちにとって、これはとても楽しいことであった。二人はこういう面でも似た者夫婦に違いなかった。
こんな生活の中で、鉄五郎もヒサも定五郎もカを合せて働いた。ツギも結構役にたつようになっていた。鉄五郎の夜業の手伝いもするようになって、定五郎の勉強時間はそれだけ少なくなったが、成績は三番以下には落ちなかった。
明治20年10月、ヨネが生れると、一家の窮乏はさらに激しくなった。
この年は豊作だったので、土間には俵がうず高く積みあげられた。定五郎は俵の数を眼で読み、年貢米を納めても相当残ると思って喜んだ。ところがそれも束の間、その俵がたちまち近所の家へ運び去られて行くのである。
「どうしてお米を持ってっちまうの」
と定五郎は聞いた。
「前借りしてあるからな、何をおいても返さなきぁいけねえ」
定五郎は父の言葉にしばらく呆然としていた。そして、悲しみを込めた眼差しで運ばれて行く俵をジッと見つめ、貧乏の辛さを頭の中に刻みつけていた。
明治22年3月、定五郎は千代小学校を首席で卒業した。多数の来賓を前に、卒業生総代として志摩勝富校長から卒業証書を授与された。その時の感激は、定五郎にとって一生忘れることのできないものとなった。
「嬉しかったですよ、本当に。大勢の生徒の中からたった一人選ばれて卒業証書を貰いに行った。その時のことは今でもはっきり眼の前に浮かんで来ます」
定五郎翁は静かに語るのである。
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