第15章 戦後十年
1948年(昭和23年)8月、定五郎は貿易使節として戦後始めて日本を訪れた。
矢作の家では91才になる母ヒサが待ちかねていた。戦争中夫を失ったヒサの手と、妻に先き立たれた定五郎の手はかたく、かたく握り合わされた。それはお互いの無事を確め合っているようであった。
残暑がきびしく、稲田は青々と茂っているが、人々は物資の不足とヤミの高騰にあえいでいる。定五郎は二学期に入った小学校の生徒全部に鉛筆を贈り、矢作の人々には砂糖を贈った。このことは各方面から感謝されたばかりでなく、東京朝日新聞は美談として紙面をかざった。
バイヤーとして東京、横浜あるいは阪神地方と、各地をまわった定五郎は、戦争がいかに大きな惨害をもたらすかを眼のあたりにしてがく然としたが、それと同時に、これほどまでに叩きのめされた日本に、早くも復興のつち音が高らかに響いているのを見て、祖国の前途に心からの声援をおくるのだった。
共同貿易は以前から神戸の西本貿易株式会社と取引をしているので、定五郎は西本を主とし、その他数社との間に食料品、雑貨の契約を大量にとりきめた。また北京飯店の社長をしていた石井忠平が引揚者として帰ってきており、さしずめ何をする当てもないのを見て、東京に共同貿易株式会社を設立し、忠平をその社長にすえた。
それやこれやをすませて定五郎はアメリカへ帰って行ったが、バイヤーとして日本にきた数多くの実業家のうちで、100万ドルの信用状を持ってきた者は、後にも先にも定五郎ただ一人であったという話が伝えられている。その真偽は知らないが、当時定五郎はロスアンゼルス市内の目抜きの場所に、8ヵ所もの土地と建物を所有し、市外には数十エーカーの農園を持っていた。この不動産だけを評価しても驚くべき巨額にのぼるのであって、その財力がいかに堅実であり、また群を抜いていたかが知れるのである。
しかし定五郎の心は淋しかった。
業務に対する情熱はいささかも衰えず、公共のための奉仕も積極的に行って、表面的には何の変化も見られなかった。いやむしろその活動はさらに活発となったかに見受けられた。しかもなお、亡きハナヘの思慕の情は、定五郎の胸の底を流れて尽きることなく、何物をもってもその淋しさを消し去ることはできなかった。
1952年(昭和27年)3月12日、母ヒサは95才の高齢で世を去った。
まだアメリカに帰化していなかったので、自由に日本に来ることができず、とりあえず追悼会を催して瞑福を祈ったが、翌年帰国して、墓前に額づきねんごろに母の霊を慰めた。
母の死は定五郎の淋しさを一層深いものにした。父とハナを失ってから、定五郎はアメリカにおいては、東本願寺別院その他各寺院に幾度か寄進し、郷土矢作においては、1950年草柳氏外4名と共に、春光院梵鐘再鋳費として27万円を、また母の死後、春光院山内修築費として10万円の寄進をしている。これらの寄附はもともと定五郎の深い宗教心に根ざすものであるにはちがいないが、直接的には亡き人の来世を念ずる心から出たものと言うべきであろう。
母の死にあって、おそらく定五郎は隠退のことを考えはじめたものと思われる。
1955年、定五郎は国籍をアメリカに移した。
その時、長男孝太郎は星﨑投資会社々長として、土地家屋売買貸借の業を独立経営している。智恵子は東海商会をラッキー・グロッサリーと改めて、白人相手の食料品、雑貨商を営み、美妓子の酒類飲料店も繁盛し、タマ、トミも幸福な生活をしている。兵太郎は亡くなったが、弟敬次郎はパージル植木園を経営する傍ら、謡曲喜多流の師範として重きをなしていて、いずれをみても、定五郎の心にかかるものは何一つないのである。
定五郎はついに隠退することにきめ、共同貿易の社長の椅子を石井忠平に譲り、その他すべての面から身を退いて、長い奮闘生活に終止符を打った。
身軽になって晩年を送ることになると、やはり日本はなつかしい故国である。
一年を通じて気候温和、四季花に埋もれるロスアンゼルス、その発展の速さにおいて世界に類例を見ないと言われ、現在ではアメリカ経済文化の尖端を行くロスアンゼルスも、喜寿を越え、静かな余世を送ろうとする定五郎にとっては、もはやふさわしい土地ではなかった。
しかも日本には多くの妹たちがいる。大勢の弟妹のうちで、ツギ、兵太郎、ツナ、シソの四人はすでに世を去ったが、ハルは矢作の本家のあとを守っていてくれ、富田ヨネは小田原市内の千代に、飯山コヨは十字二丁目の河内屋菓子舗、佐藤スエ子は緑一丁日の玩具商旭屋にあり、また東京には石岡キン、二宮町には松本ユキ子と、それぞれ元気に暮している。そのほか小田原附近には多くの親戚や知人がいる。子供たちと別れ住むと言っても、日本とアメリカの間は旅客機で僅か二日の航程に過ぎない。
逢おうと思えばいつでも逢えるのである。
定五郎は子供たちとも相談した末、日本に移り住むことにきめた。そして、1956年(昭和31年)4月日本へ来ると、熱海市西山600番地の土地と家屋を手に入れ、身の廻り一切を取りしきってもらうために鈴木ていという老婦人を頼んで、隠せい生活を始めた。
ていを相手としての新しい生活はまことにつつましく、その中で定五郎は静かに過去を回想する時を持った。
人間が過去を振り返える時、脳裡にあざやかに浮びあがってくるものは、楽しくはなやかだった時代の記憶ではなくて、むしろ貧しかった時、苦しかった頃のことではないであろうか。それはおそらく、困苦を乗りきった時の大きな喜びが、きわだった印象として刻みつけられているからなのであろう。
今、定五郎の胸によみがえってくるものも、ちょうどそれと同じように、苦しい時代の思い出ばかりである。
「バカビイル、サンノーゼ、キヤストルビイル、それからモントレー、リバーサイド。今考えると全くひどい労働だった。自分ながらよくやり抜いてきたものだと思う。東海商会の時も大変だった ― アメリカヘ行ってから60年間、働きどおし働いてきたから、これからは静かに暮して行きたいと思いますよ」
そう言って定五郎翁は笑った。
定五郎は時折矢作の家へ出かける。
春光院の山門を出たところに、亀興院という小さなお堂があり、俗に矢作のお観音さんと呼ばれて下府中の人々に親しまれている。堂の前に広場があって、そこは昔から子供たちの遊び場になっている。
そこにはブランコもすべり台も、そのほかなんの遊び道具もなく、子供たちはただ飛びまわって遊んでいる。定五郎はここへ来ると、子守をしながら遊んだ遠いむかしを思い出すのである。観音堂も広場の北側に建てられている青年会場も古びていて、ガランとした感じが昔とちっとも変わっていない。定五郎の胸のうちに、ここにいろいろな施設を作ってやったら、子供たちはどんなに喜ぶだろうかという考えが湧いてきた。
定五郎は早速部落の人たちに自分の考えを話し、遊園地を作ることを頼んだ。
定五郎の寄附金20万円によって、矢作児童遊園地は間もなく出来上り、昭和32年7月、開園式を挙げた。
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