第10章 共同貿易株式会社
定五郎は日本商品の輸入を有利にかつ円滑にするためには、どうしても大資本を擁する強力な組織を必要とするという考えを前から持っていた。日曜組合の結成はその第一着手というべきものであった。しかし、それは連絡協調を主としたもので、もちろんいくらかは共同仕入もやったであろうが、その資本力は微々たるものであった。ところが近々10年ほどの間に、組合員のうちに基礎を固め、堅実な営業を続けている者が幾人か出てきた。定五郎自身すでに40万ドルの資本を蓄積し、1920年(大正9年)には5万ドルを投じて、東1街801-3番地の土地と家屋を買入れるというほどの実力者になっていた。
ロスアンゼルスの人口は57万という驚異的な増加を示し、さらにどこまで発展するか予測もできないような状況であった。
定五郎は時節到来を感じた。今こそ同業者が打って一丸となるべき時だと思った。
当時、同系統の商品を扱っている有力な商店としては、遠分、服部、菅野、小島、肥後屋等があった。定五郎はこれらの商店を歴訪して、株式会社の設立をすすめた。
共同貿易株式会社
そして、ついにこれらの商店と東海商会とで共同貿易株式会社を設立し、みずから社長となり、本社を東1街803番地においた。1921年のことである。
共同貿易の設立は、定五郎の 「一歩一歩着実に」という基本方針とち密な計算とによって計画されたものであり、その経営もまた当然同じ方針によって貫かれていた。
例を金融面にとって見よう。共同貿易はファーマス・マーチャント・ナショナル・バンクを取引銀行としていたが、定五郎はどんな事があっても、返済期限をたがえたことは一度もなかった。
「私は主義として、返済の期限までには何をおいても返す。こういう風に約束を守れば信用がついて、いつでもすぐ必要なだけ貸してくれるようになる。おかげで金の融通は非常にうまく行った」
と定五郎翁はいう。
人間は誠実でなければならない。これは定五郎の信条である。その誠実さが生れつきのものであるか、後天的に培われたものであるかは知らない。が、いずれにしても、いかなる逆境にあってもなおかつ誠実を失わなかった意力は、まことに卓絶したものだったと言わざるを得ない。
この信条によって経営されたのだから、はなばなしい繁栄、際立った躍進という形は現れなかった。しかし、定五郎が意識していたかどうかは別問題として、結果から見れば、ロスアンゼルスの発展の流れに乗って、自然に発展して行くという、最も適切で、無理のない経営がなされたことになるわけだった。共同貿易は堅実そのもののごとき歩みを続け、次第に強大な地力を貯えて行った。
しかも年が経つにつれて、最初の出資者のうちにあるいは死亡し、あるいは脱退する者ができ、共同貿易の実権はひとりでに定五郎の掌中に集まるようになった。
こうして、定五郎は片方の手に東海商会を、もう一方の手に共同貿易を握り、限りない前進を続けるのであった。
1923年(大正12年)9月1日に、定五郎はロスアンゼルスの海岸であるホワイト・ポイントの、田上という人が経営する温泉に行っていた。その時である、あの関東大震災のニュースが入ったのは。
9月1日午前11時58分、突如として関東地方を襲った大地震は、1府8県にわたる広大な地域に未曽有の災害をもたらした。首都東京は震後各所に起った火災によって焦土と化し、死者5万8千、重傷8千、行方不明1万余にのぼる凄愴(せいそう)極まる場面を現じた。ことに相模灘の震源地に近接した小田原を中心とする一帯は地震の被害最も甚だしく、さらに小田原、真鶴には火災が起って中心部は烏有(うゆう)に帰し、また片浦、根府川、米神等のごときは、山崩れのため、部落の大部分が地下に埋没するという惨状を呈した。
定五郎は刻々と入ってくる情報を手にして、それがかつてのサンフランシスコの大地震よりもはるかに大きいのに驚愕した。そして小田原地方の被害甚大なことを知った時、故郷に残してきた父母の安否が気づかわれたが、遠く離れてどうする術もない身をただなげくのみであった。
だが、日本にとって不幸な出来事であった関東大震災は、共同貿易には幸運をもたらすものとなった。
この地震によって日本からの商品はばったり止まってしまった。手持の品は文字通り羽が生えたように売れた。物価も日に日に高騰した。米7ドルのものがたちまち13ドル50セントにはねあがるという始末であった。
設立後僅か2年の共同貿易が確固不動の基盤を築き得たのは、まさにこの地震の好景気によるものだと言ってよいであろう。しかし、そのかげに定五郎の明敏な頭脳の働きがあったのも見逃してはならないことである。
和歌山県出身の尾崎という人が定五郎のところへきて、
「この分だと米は20ドルまであがる。今が買い時だと思うのだが、あなたも一緒に買ったらどうか」
とすすめた。
「いや、関東大震災はたしかに未曽有の災害だが、いくら大きくても関東だけだ。少し落ちつけば米なんかいくらでも出廻るにちがいない。この辺でしめた方がいい」
「そんなことがあるものか、絶対に大丈夫だ」
尾崎は定五郎のしきりに止めるのもきかず、千俵の米を買いつけた。ところが間もなく定五郎の予想通り米価は下がり、尾崎はついに店まで売り払うようになってしまった。尾崎に限らず、当時人々はこの景気に酔いしれ、図に乗って失敗したものが相当あった。定五郎の締めるべき時に締める進退のあざやかさ、時期を見抜く慧眼はいつ身につけたものであろうか。
定五郎はこういう状態の中で、震災慰問金募集の先頭をきって働いた。ロスアンゼルスの人々はわれ先にと応募し、日本政府へ5000ドルを送った。神奈川県人会も別に4000ドルを、定五郎、草柳竹次郎もそれぞれ500ドルずつを送ったのだった。
定五郎の事業はまさに順風に帆をあげた船のようであった。そのかじをあやつる定五郎の腕もまた確かで、この航海は一路平安のごとくに見えた。が、海そのものは必ずしも穏かではなかった。
定五郎ばかりでなく、在米同胞の上に重くのしかかっている排日という大問題があった。
ここでアメリカにおける日本人排斥の経過について述べておこう。
1848年1月、サクラメント河で砂金が発見され、ゴールドラッシュを現出したことは前にもちょっと触れたが、その時アメリカはその労働者として多くの支那人を呼び入れた。ところがこれは労働力補充の面からは満足すべき結果を得たが、そのまま居ついた支那人の強大な生活力はアメリカ人に不安を感じさせるようになり、ついに支那人排斥の火の手があがり、1882年、支那移民の禁止が行われた。
支那人のアメリカ入国が禁止されると、それに代って今度は日本人が渡航をはじめ、その数は年々増加した。ことに1891年4月、ドイツ船レムス号の運んだ日本人男子50名、女子3名は身にはポロをまとい、一文の金も持っていないというみすばらしさだったので、いわゆる「レムス号事件」を起し、また1893年には僅か一ヵ月に500名もの多数の移民が入ったこともあった。こうして移住する者が増加するにつれ、アメリカ人の警戒心は次第につのり、排日の気運が芽生えて行った。
それにもかかわらず、移民はますます増加する一方で、アメリカ政府の調査によれば、1897年(明治30年)から1909年までの問に、米本土に入国したものは7万3千余名、ハワイ、カナダ、メキシコ等よりの転航者5万名を合わせると、実に12万名を突破するという状況であった。これがアメリカ人を刺激しないはずはなく、排日の運動は本格化し、日本人の最も多いカリフォルニアではことに甚だしくなった。
そして、1906年10月、ついにサンフランシスコに日本人学童問題が起った。これはサンフランシスコの学務局が日本人の子供を公立各小学校から放逐して、東洋人小学校へ転校させることとした事件である。日本政府はただちにその不正をならし、再三抗議し折衝したが、結果はハワイその他よりの転航禁止を日本が認めるという交換条件で解決した。
しかし、サンフランシスコを中心とする排日的空気は依然として強く、日本人迫害の事件も二三に止まらなかったので、日本政府は日米間の円満な国交を希望して、自発的に移民の質を向上し、労働者の移住を防止する、いわゆる 「紳士協約」を締結した。
ところが、この紳士協約は移民に対するもので、在米同胞については何の制約もなかったから、農民として大いに発展し土地を所有するものが激増し、その結果排日の矛先は在米同胞に向けられたのだった。1909年にはカリフォルニア議会に幾度か排日法案が上程され、1913年にはついに加州土地法案が通過した。日本人は土地所有を禁ぜられ、借地耕作権も三ヵ年に縮少されたのである。
その後、世界大戦によって一時排日は下火になったが、1920年になると再び問題化し、写真結婚が禁止され、さらに借地権をも認めない土地法が通過した。その上1923年には日本人の収穫契約をも奪われるに至ったのである。
ロスアンゼルスは他の土地に比べれば割合に穏かであったが、今や排日は在米同胞全体、ことに農民にとっては死活の問題となった。同胞は打って一丸となり、その対策に腐心し、奮闘したのだった。
ちょうどその頃のことである。
メキシコの綱島領事から、メキシコシティの近くのナイレタ州ティペックに16万5千エーカー(6万5千町歩)の土地があって売りに出されているという連絡が、ロスアンゼルスの若杉領事のもとへもたらされた。土地問題で因っている時なので、これを買うことにしたらどうかというのが一同の一致した意見で、種々協議の結果、資本家代表として定五郎外10名が選ばれ、現地を視察することになった。
ティペックに到着、地主に馬車を仕立てて貰って、ジャングルの中を四日間行くと海岸へ出た。砂浜半分、磯浜半分という、その海岸に沿った広大な土地であった。測量をやっていると、東洋汽船の船が往復している時で、もしここを買うならば船を寄せてもよいということだったので、ついでに海の方も測量した。境界にはサンディエゴ河が流れていて、ワニの群がすんでいた。野生の植物が繁茂していて、バナナ、オレンジ等の果物も豊富にあった。海岸にはいろいろな鳥が自由に飛びまわっていた。
地主は大水のあとなどトウモロコシを植えると非常な収穫があると言った。なるほど中央には穀物倉も建っていた。
定五郎はじめ一同はこの土地が気に入り、値段をきくと100万ペソ、しかも最初内金として一割支払い、あとは年賦でよいという。すべて好条件であった。契約はまさに成立するかに見えた。が、急に地主が冷淡な態度をとりはじめ、ついにこの交渉は不調に終ってしまった。あとで調べたところによると、ロスアンゼルスの日本人の反対派が、視察団はわれわれの代表ではなく、ニセ物だという電報を地主に打ったためであった。
「その後、ここに革命が起きて滅茶苦茶になったので、うまく行かなくて却ってよかったかも知れないが、なかなかいい土地でしたよ」
と定五郎翁は今でも惜しそうな顔をするのである。
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