第9章 ステップ・バイ・ステップ
ハナをはじめて迎え入れた時、定五郎はこれまでのアメリカの生活を詳しく話した。
「― そういうわけで商売の方はどうやらやって行けるようになったが、店はまだこんなに小さいし、これから先にいくつ険しい山坂があるかわからない。が、おれは今までよりももっと働く― だからあんたもそのつもりでやってもらいたい」
ハナは黙って深くうなずいた。
定五郎の働き振りは一層めざましいものになった。
当時を回想して定五郎翁の語るところによれば―。
朝は4時に起床。すぐ自転車で野菜マーケットにかけつける。マーケットには田舎で百姓をやっている日本人の野菜馬車が来ていて、車の尻を並べてそれが店になっている。その真中を通りながら仕入れをし、ついでに農民たちの欲しいものをきいて注文をとる。注文があると、急いで店へひき返し品物を持ってきて渡し、それから野菜を積んで店へ帰る。これがたいてい10時頃で、これから本物の店の仕事に入るのである。まず米、野菜、しょうゆ、味噌、石油などを主として料理店や飯屋に配達する。
午後は、今度は一般家庭への配達と注文とりで、自転車、馬車でかけずりまわる。店の方も賑やかな商店街なのでふりの客も多く、その応接とひっきりなしにかかってくる電話とで、ゆっくり腰かけて食事する暇もないほどである。そして、店を片づけ一日の締めくくりをするのは大体11時頃になる。
これが毎日の日課であった。
ハナは実によく働く。定五郎が外まわりをしている間、店売りは当然ハナ一人の受持ちであるが、性質がおとなしく気立てがやさしいので、誰からも愛され、それが店の人気を高めているようであった。定五郎が帰ってくると、食事の仕度やら洗濯やら、妻としての仕事がある。それをハナはてきばきと処理してすぐ店を手伝いに出てくる。
「今はあんまり忙しくないから少し休んだらどうだ。無理をして身体をこわしちゃつまらないよ」
まだ身体だけが資本という状態なので、定五郎は時々心配になるのだが、そう言われてもハナは笑って相変らず店へ出てきた。
商品の陰から、客と応待しているハナを見ながら、定五郎はまたとない妻を得た幸福に浸るのであるが、ハナにしてもおそらく、こうして夫と共に働くことが何よりの楽しみであるのにちがいない。
一日の仕事が終えると二人ともグッタリ疲れ、早く寝台に入って眠りたいと思うほかには欲も得もないという風であった。
店が繁昌してくるにつれて、あちこちからいろいろな話を持ち込んでくる。二人の過激な働きを見て人を雇ったらどうかと親切に忠告してくれる者もあった。こういう有利な事業があるのだがと誘いかけてくる者もあった。
定五郎は自分の力を正確に計算する能力を持っていた。どういう話が持ち込まれても、それを判断し、尺度匠合わないものはどしどし切り捨てた。今、定五郎の頭の中にあるものは、この店を着実に発展させて行くことだけなのである。物事はいっペんに成就するものではない。「ステップ・パイ・ステップ」 一歩一歩着実に進む。
それよりほかに成功の鍵はあり得ない、というのが定五郎の信念であった。ハナはいつでも定五郎の考え方を支持した。素直であったからというよりは、むしろ定五郎を信頼していたからというべきであろう。心と心とがしっかり結びつき、いささかの間隙もなかったからというべきであろう。
二人の努力と着実の経営は知らぬ間に店の信用を高めていた。
1908年(明治41年)南カリフォルニア在住の神奈川県人は、相互の協力と親陸を図ることを目的として南加神奈川県人会を創立し、定五郎は推されてその初代会長になった。
この頃になると店はすでに狭隘(きょうあい)を感じていた。定五郎は新しい店舗をほしいと思って、あちこち物色していた。2年ばかりたって、東1街313番地の伊藤寿吉という人が帰国するということで、店を譲りたいという。東1街はサンピドロ街と交差する繁華街で、現在の店とはつい眼とはなの先のところにあった。
定五郎は直ちにその店を買いとり、東海商会をそこへ移転し、サンピドロ街の方は住居にあてることにした。
店が大きくなったことによって顧客は増加し、販路も拡大したが、その代り店と住居とを別々に持ったことで二人の忙しさは倍加した。ことにハナはたとえ眼とはなの先とはいっても、二軒の家の間を日に何度も往復しなければならなかった。
それが身体に響いたのか、ハナは過労に陥ったように見えた。時々目まいがしたり、吐き気を催したりした。定五郎は心配して無理に休ませたが、格別悪くもならず、といって快くもならないようであった。ついに医者に診てもらった。医者は妊娠だと言った。
定五郎はハッとした。次の瞬間、身内に何かしらモクモク奔騰してくるものを感じた。それはかつて覚えたことのない新しい感情であった。
定五郎はハナをいたわり、ハナが働こうとすると拝むようにして休むことをすすめた。もし神がこんな二人の情景と、定五郎自身の生まれた時の父鉄五郎、母ヒサのそれとを比べて見たならば、それが全く似ているのにきっと微笑されたにちがいない。しかし、店の忙しさは二人の注意をともすれば押し流してしまうのだった。
体内の子は順調に発育しているようであったが、定五郎とハナの大きな期待はついに裏切られた。赤ん坊は死んで生れたのだった。定五郎は妻の枕辺に呆然としていつまでも座っていた。
この時の悲しみが大きかっただけに、1913年(大正2年)11月25日に、長女の智恵子が生れた時の喜びようはひとかたでなかった。定五郎は智恵子の出産祝を料理店「菊亭」で催した。集るもの数十人に及ぶ盛大な会であったが、これをみても定五郎とハナの喜びのいかに大きかったかが知れるのである。
店の発展は極めて順調であった。1911年、グレンドラーに始めて5エーカーの土地を得た。冬でも霜を見ない暖かな所で、スイートピーをまくと、正月によい実が成って、1斤25セントで売れた。
このようにたとえ僅かでも商品の自家生産に手を染める一方、当時すでに15,6軒を数えるほどになっていた同業者を集めて組合を組織した。日本への注文を相談したり、商品の分配をしたりする輸入共同組合ともいうべきもので、日曜日を集会日と定めたので、日曜組合といった。これが後年、共同貿易株式会社設立の原動力になったのである。
定五郎の才腕は次第に発揮され、事業は着々隆盛に向った。しかも、1915年に勃発した第一次欧洲大戦は、その発展に拍車をかけるものであった。しょうゆ一樽3ドルのものが9ドル、もち米一俵10ドルのものが25ドルという物価の高騰は、東海商会を一流商店に押しあげずにはおかなかった。
大正4年9月に発行された露木惣蔵著『在米神奈川県人』という本がある。それには星崎定五郎のことが次のように記されている。
「羅府東第一街三一三番東海商会の主人たる氏は(中略)北サンピドロ街に於て、和洋食料品、雑貨、野菜、果物等を販売する商店を出し、屋号を東海商会と称し、店員数名を雇傭して、機敏に活動せしが、忽にして世上の信用を得、販路日に月に拡まり、商売頗(すこぶ)る繁栄に赴き、明治四十四年目本人下町の中心たる現在の場所に移転して、大いに其規模を拡張し、今や南加州同胞間に於ける屈指の豪商として令名嘖々(さくさく)たり。而して令閨(れいけい)花子は足柄上郡吉田島村井上徳治郎氏の次女にして、明治三十九年秋氏に嫁し、偕老の契浅からず、大正二年十一月二十五日愛児智恵子を挙げ、和気藹々(あいあい)の裡に暮し居れり」と。
明治32年渡航以来、十数年にわたる奮闘努力はここに漸く実を結んだのである。
そして、一緒に渡米した草柳竹次郎はバサデナで和洋雑貨商を営むこと10年、1916年にロスアンゼルスに出て、北メン街に大商店を開店した。また神谷増太郎も東一街で旅館、玉場、桂庵の外、美術商を経営し、それぞれ頭角を現わしていた。
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