第8章 東海商会の開店

矢作へ帰ってきて、定五郎は自分の計算がまるっきり間違っていたのを知った。
5年の間、なんの慰安娯楽もとらず、自分の口さえもつめる思いをして続けてきた送金は、古くから積りつもっていた借金の返済にあてられていて、僅かばかりの土地は買い戻してあったが、金はほとんど残っていなかった。しかも、家族は長女のツギが去年嫁に行っただけで、二女のハルから三男の敬次郎を中にして八女のキンに至るまで、全部で十人の大家内になっている。したがって借金こそ一銭もなかったが、家計は依然として苦しかった。
この状態をみて落胆したが、といって腕をこまねいていられることではない。
定五郎はすぐ酒匂川工事の仕事を見つけ、毎日賃持かつぎに出て行き、日給わずか25銭を情けなく貰って帰った。
定五郎は渡米前とまったく同じ生活にもどってしまった自分自身をふりかえった。5年間のアメリカでの労働生活は口にも筆にもつくせない激しいものであったが、いかに苦しくいかに辛いものであったにもせよ、ともかくなにがしかの貯金をすることができた。将来への希望が持てる生活であった。ところが現在はどうであろう。先のことを考えるどころか今日の日をしのぐことすらできない。これではどう仕様もない。もう一度アメリカに渡ってひと働きしよう。
そう決意して準備にとりかかったが、今度渡米したら再び農業労働はやるまい、たとえ小さくとも店を持って商売をやろうと考えた。前に繁次郎の店を手伝った経験もあるし、食料や日用品は毎日消費されるものだから当りはずれは少なく、商品の回転率もよい。やるならば食料、雑貨商だとは前々から心に画いていたことだった。
定五郎は帰国の時持ってきた金のうち、何かの時の用意にもと思ってとっておいた金を持って横浜へ出かけて行った。日露戦争の軍需品で、不合格になった缶詰や食料品が二束三文で売りに出ていることを聞いたからである。
日露戦争は3月10日の奉天の大会戦、5月27日の日本海大海戦に、日本が大勝利を博して事実上戦争は終結した。だから軍需品として作られた食料品は最早不用となり、それがどしどし国内市場に振り向けられていたので、軍の不合格品など見向きもされなかった。しかし、それは不合格品といっても、おそらく規格に合わなかったからはねられたのであって、不良品というのでは決してなかった。
定五郎はその缶詰類やかんぴょう、しいたけ、高野豆腐などの乾物類、味噌、しょうゆを買い込み、そのほか雑貨、箱根物産等も仕入れた。また今後の商品の補給については、酒匂の鈴木政五郎の援助を頼み、その方面の手筈もととのえた。
そして、1905年(明治38年)9月、アメリカ船コレア号でロスアンゼルスヘ向った。
ロスアンゼルスに着くと税関では、定五郎の商品に莫大な税金を課した。定五郎は仕入値段を詳しく説明して関税の高すぎることを力説したが、税関吏はどういう品であろうとそんな馬鹿な値段はないと信用しない。果てはたとえその値段で仕入れて来たのが事実としても、関税は一文も負けるわけに行かないと頑として受付けてくれなかった。
定五郎は仕方なく大部分の商品を倉庫に預け、僅かな商品をもってとりあえずジャクソソ・ストリートに見つけた借家に落ちついた。
ロスアンゼルスは南カリフォルニアのサンピドロ湾に面し、一年を通じて気侯温和、雨が非常に少くて5月から11月までは快晴の日が続き、しかも四季花に埋もれるという極楽郷で、1781年、スペイン人の探険隊がここに来た時、彼等は「天使の女王の村」と名づけた。後にその最後の字をとってロスアンゼルスと呼ばれるようになったという。その発展の速さにおいては世界に例がないといわれており、1831年に人口僅か770人であったものが、1930年には125万、1950年には190万と急激に増加し、現在では市域は1165平方キロに及んで米国第一位、人口は250万を擁して第三位を占める、太平洋岸第一の大都会となっているのである。
定五郎がロスアンゼルスに行った1905年当時は人口12万5千人の都市に過ぎなかったが、大規模なダム工事を完成して水力発電をおこし、また上下水道を完備するなど、都市としての施設が着々整えられていたので、人口はぐんぐん増え、めざましい躍進を見せていた。
定五郎は1年前とは見違えるほどの発展振りに眼を見張ると共に、その輝しい将来に思いをはせて、住むならばここだと改めて思い定めた。定五郎の成功がロスアンゼルスの発展と共にあったことを思う時、定五郎がここを自分の事業の地として選んだのは、まさに先見の明があったということができよう。
定五郎はすぐにも店を持ちたいと思ったが独力でやるにはまだ力が足りなかった。
ところが幸いなことに二人の協力者が現れた。一人は現在(昭和34年当時)なお健在で、故郷である小田原市鴨宮で医院を経営されている星崎金次郎、もう一人は同市内曽我谷津出身で金次郎の従弟にあたる神保政太郎である。
三人はいろいろ相談の結果、資本金2000ドルで食料雑貨商をやることにし、支那街に続くサンピドロ街124番地 ―ここは現在ロスアンゼルスの中心街になっている― に家を借り受けた。
ところが、定五郎が開店準備のためレモンや果物の仕入れにリバーサイドへ行き、ついでに田舎まわりをして帰ってくると、神保政太郎のところへ故郷の父が死んだという電報が来ていて、
「親父が死んでみると、早晩日本へ帰らなければならない。途中でやめるよりも、今この事業からひかせて貰った方がお互いにいいと思う。出ばなをくじくようで悪いけれど、そういうわけだから、この際手をひかせて貰いたい」
と云った。すると星崎金次郎も従弟がやめるなら自分も一緒にと申し出た。
定五郎は途方に暮れた。が、事ここに至っては独力でやるより仕方がなかった。始めの相談できまっていた「東海商会」という店名も、それならいっそのこと「星﨑商会」としようかとも考えたほどだったが、やはり最初からの計画だからと思いなおして、「東海商会」をそのままに開店した。間口二間半(約4.5m)、奥行六間(約11m)ばかり、電灯をひきたくてもひくことができず、大きなランプを二つつった、みすぼらしい店であった。
開店はしたものの客はさっばり来ず、仕入も思うようには行かなかった。田舎から鍋や釜の注文があっても、それを仕入れるたった11、2ドルの金にさえ事欠いた。
問屋へ行って月勘定で貸してくれと頼むと、問屋はうさんくさそうな顔をしてわざわざ店を見に来、あまりのみすぼらしさに驚いて帰ってしまうという具合だった。
それでも日が経つにつれ、定五郎の努力の結果は現れ、店は次第に忙しくなっていった。そうなるとすぐ商品にひびいて、めっきり手薄が感じられてきた。
1906年(明治39年)のはじめ、定五郎は商品の仕入れと、もう一つには一緒に働いてくれる妻を探すために帰国した。
母親は、
「あたしもね、前から気にかかっていたんだよ― いいよ、心当りが二つ三つあるから行ってきてみよう」
と雨の中を出て行った。
しかし、そうすぐ似合いの者が見つかるはずもなかった。といって、いつまで滞在することもできず、そのことは母親にまかせて定五郎は帰米した。
仕入れてきた商品の売れ行きは素晴らしかった。商品の評判のよいこともそうだが、それ以上に定五郎を喜ばしたのは、思い切って日本に行ってきたこと、それがまた見事に図に当ったことだった。

見合い写真1

見合い写真1

よい事は重なるというが、定五郎のあとを追いかけるようにして母親から花嫁候補者の写真が送られてきた。足柄上郡吉田島村2831番地井上徳治郎の二女でハナといった。定五郎は自分には異存はないからよろしく頼むと返事を出した。
その頃アメリカにいる独身青年の唯一の結婚法として、いわゆる「写真結婚」が流行していた。写真結婚というのは、日本の家族が適当な女を見たてて、双方の写真を交換し、話がまとまると花嫁だけの結婚式を日本で挙げて、単身米国の夫の許へ渡航する方法である。生涯の伴侶を定めるにしてはあまりにも簡単すぎる、そんなことで結婚後問題は起らないのかと今の人は思うだろうが、実際在米青年はこんな方法によらなければ嫁を迎えることができなかったのである。
見合い写真2

見合い写真2

定五郎の縁談はうまくまとまり、3月31日、二人の写真結婚はめでたく成立した。定五郎28才、ハナ19才であった。
4月に入ってすぐのことである。
税関から倉庫にある品物ほどうするのか、6ヵ月経ったからひきとらなければ没収するといってきた。ひきとるには関税と倉敷料を支払わなければならない。それを支払うのはいかにしても口惜しい。といって没収されることはさらに辛かった。定五郎はまた金の苦労をしなければならなかった。そして百方奔走したあげく倉庫の品物全部をひきとったのだった。
ところが間もなく、アメリカにとっては不幸なことであったが、定五郎にとっては幸福をもたらす事件が起った。サンフランシスコの大地震である。
4月18日午前5時12分、サンフランシスコは強烈な地震に襲われた。断層地震で、震度からいえばわが美濃地震に及ばぬものであったが、ガスや水道の元管が破れて大火災が起り、20日までの3日間荒れくるって12平方キロメートルの市街を灰に帰した。
死者478名を出し、損害は2億5千万ドルを算したといわれている。
この地震によって、サンフランシスコ在住の日本人の多くは南カリフォルニアに移住し、また遠くメキシコ境にまで行ったものもあった。ロスアンゼルスの日本人人口は急にふくれあがり、商品の需用もいっペんに増加した。それに地震で焼けた物資の補給もにわかには間に合わず、物価は高騰して座っていても商売ができるという風で、定五郎にとっては思わぬ幸運に恵まれたわけであった。
店の近所には次第に日本人が移り住むようになり、ついに日本人街ができる勢いであった。それにつれて店は繁昌し、商品も食料品のほかに、雑貨としては鍋、釜などの台所道具から玩具、箱根細工、薬品、種子、さては繊維品まで扱うようになった。
定五郎はこれでどうやら店の基礎が固ったと思うと同時に、一日も早くハナの渡米をねがった。そして、1月に帰国した時婚約してきたといって呼び寄せる手続きをとった。
11月、ハナは高山イソ ― 兵太郎もこの時、高山家へ入って、イソと結婚していた― と同道してアメリカヘ来た。
間もなく、星崎定五郎とハナ、高山兵太郎とイソの二組の結婚披露の宴が盛大に挙げられた。60人にあまる招待客は星崎、高山両家の繁栄を祝し、日本料理店梅花亭の料理に歓を尽した。

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