第6章 農業労働者

 サンフランシスコ湾の東岸に沿って、海岸山系のふもとを北へ50キロばかり行くと、この山脈を東西に切る谷がある。カリフォルニア中部平原の水を集めたサクラメント河とサンノーキン河とが合流して、サンフランシスコ湾に注ぐところで、上げ汐になると海水が山脈のうしろまで逆流して、そこにスイサン湾を形成している。
 汽車はこのスイサン湾の少し手前のベネシアの渡しでそのまま連絡船に乗って向う岸に渡るのである。定五郎ははじめは、どうして汽車が海の上を走るのかわからなかったが、汽車がいつの間にか船に乗っているのを知ってびっくりした。
 対岸へ渡ると、しばらくスイサン湾の北岸に沿って進み、やがて農場、果樹園の展関する大平原に出る。
 ヴァカビイルはこのスイサン湾の北方、サンフランシスコとサクラメントとのちょうど中間にあたる平原の中にあった。
 定五郎が雇われたのは、ジム・エートという人の経営する果樹園で、主にもも、ぶどう、プラムなどが広大な地域にわたって栽培されていた。定五郎と一緒に2000人ほどの日本人が雇われた。日本語を話す相手がいる、ということが定五郎の頭にこびりついていた不安を拭い去り、元気をよみがえらせた。一人一人に「何処の人か」ときくと、ほとんどの者が「和歌山県だ」と答えた。
 雇い主がジム・エート氏であるには違いないが、彼はチラリと顔を見せただけであった。和歌山県人の監督がいて「ボス、ボス」と呼ばれていた。農園の管理運営から労働者の雇用まで、何から何までこの男がとりしきっていた。だから定五郎たちの実際の雇い主はむしろこのボスだと言ってよかった。
 ボスは背が高く、頑丈で、真赤に日焼けした顔の男だった。まゆ毛の太いのと、二の腕がこぶのように盛りあがっているのが、強い印象を与えていた。定五郎は飯泉観音の仁王様を思い出した。
 ボスはみんなを並べておいて、仕事は果物もぎ、労働時間は朝から日の入りまで、賃金は1ドル、食事は支給するが、食費として25セントを賃金から差し引く、ということを言い渡した。そして、果物を盗み食いした場合は、一つについて罰金5ドルを科すということを、特につけ加えた。定五郎にはボスの声がバケツでもかきまわしているように聞えた。
 労働は激しく、厳格であった。昼休みと午前午後の休憩時間のほかは、いささかも休むことは許されなかった。が、関節がこわばり、首や腰が痛み、休憩時間は遠かった。手をさすり、足をもみ、腰をたたくという動作が、頭の働きとは何の関係もなしに起る。ボスは絶えず見廻っていて、そんなところを見つけると、アメリカ人がやるように両こぶしを頭の上で振りながら、ガラガラ声をまきちらした。
 賃金は一と月分まとめて支給される。1日1ドルといっても食費二十五セントが差引かれるばかりでなく、その上さらに、ボスのコミッションとして一日二十五セントずつ取られるのである。それでも定五郎には有難いものだった。はじめての賃金を貰った時、定五郎はそれをていねいに内ポケットに収めた。
 あとになってだんだんわかってきたことであるが、どこの農園に行っても、労働者はキャンプに泊ることになっている。キャンプと言っても特別な施設があるとは限っていず、ある時は馬小屋で馬と一緒に眠ることもあった。またキャンプが満員で入りきれないこともあって、そんな時あとから来た者は、道の草を刈ってきて敷き、毛布にくるまって一夜を明かした。が、ジム・エートの農園にはともかくもキャプがあり、その点では何も言うところはなかった。
 子供の時からきたえられてきた定五郎ではあったが、キャンプに帰ると、さすがにクタクタに疲れ切っていた。
 晩飯のできるまでの間、草の上に仰向けに寝ころんで、身体をグンと伸ばすと頭が軽くなる。夕焼雲が空一面にひろがり、動くか動かぬのかわからないようなにぶい速さで、西から東へ移動している。日本にいる時にもこういう情景にはしばしばぶつかった。しかし、それとは比較にならないほどの雄大さであった。頭をちょっとねじまげると、西の空は真赤に燃えたっている。あの空の、ずっとずっと向うの、やっばり真赤な夕焼雲の下に日本はあるんだな― と思う。父や母は今頃は何をやっているだろうか。ツギや兵太郎は―。いつの間にか黄色がとけこんで、雲はだいだい色に輝いていた。動くとも思えない動きが雲を片寄せて、深い青空が頭の上に広がっていた。定五郎は今までにこんな鮮かな青空を見たことがなかった。その青さにふっとひかれたことで、望郷の念はかき消えた。定五郎は不思議な清々しさを覚えた。やがて雲の色が薄れてくると、あたりは急にたそがれてくる。
 「オーイ、飯だぞぅー」
 当番の声が呼んだ。炊事は当番をきめて交代でやることになっているのである。
 車座になって、まずお祈りをする。飯は粗末なものであるが、腹の減った時のまずいものなしで、それよりも一日の仕事を終えたあとの団らんは、ほかに何の慰安も娯楽も持たない彼等に許されたたった一つの楽しみと言ってよかった。
 「オイ、お前、今日は馬鹿に念入りにお祈りをやってたが、何を祈ったんだ?」
 「こうこと味噌汁を恵み給え、アーメン」
 「けちくせえな。おれは今年中に1000ドルもうけさせて下さい」
 「へ、相変らず欲の深え―」
 「棒ほど願って針ほどってことがあるのを知らねえな」
 「一日50セントだよ、50セント― 」
 勝手なことをしゃべって笑い合うのだが、誰の胸にも笑いすてにできないものが残る。それがいつとはなしに彼等を酒や手なぐさみに追いやるのであった。
 定五郎の心の中にはいつの頃からか、「頼るより使うな」という格言めいた言葉がしっかり根をおろしていた。いくらかせいでも無駄に使ってしまっては残るはずがない。このあたりまえのことが定五郎には少しもあたりまえでなく思えた。
 「使わぬこと、使わぬこと」と口の中で繰りかえしながら戸外へ出た。
 星は乾いていた。金属的な光が降るようであった。星崎繁次郎や草柳竹次郎、神谷増太郎、そのほか一緒に渡航した者のことが思い出される。何処で働いているのか。
 きっとがん張っているにちがいない。そう思うと、負けてなんかいるものか、と心の糸が張りきり、キンキン鳴りひびいて、星の光にまで通うようであった。
 ジム・エートの農園の仕事は11月で終わった。
 農業労働者は一つの農園の仕事が終わると、次の農場に移って行くのだが、その行先については、各農場のキャンプ同志が常に連絡しあっていて、求人、就職が円滑に運ばれる仕組になっていた。と言っても、いつでも職が得られるわけではなく、そういう時には、赤毛布をしょいながら、毎日職を求めてさまよい歩かなければならなかった。
 殖民奨励会の創立趣意書は、当時の同胞の実情をくわしく伝えているので、それを引用させてもらうと―。

 七千の同胞、定業あるもの少なし。殊に多数の労働者を以て然りとなす。人あり若し初めて桑港に上陸し、市中を通行せば幾多の日本人が余り見苦しき風もせず、其或老に至っては、随分立派なる衣服を着けて揚々歩行し居るを見るなるべし。されど一度足を田舎の方に曳けば如何なる変化に出会うべき。大和民族は地方の各停車場に於て、赤毛布を背ひながらウロツキ居る労働者なるぞかし。此等の労働者中には、固より労働口を得て赴任しつつあるもあらん。されども其大半は労働を求めて歩むものなり。彼等は終日歩みくたびれて野に毛布を纏ひ寒き睡眠を取り、翌日の労働口を夢みつつ過ごすにやあらん。終日歩み行きて得ず、其翌日も得ず、行きつ帰りつする間に折角の路用も費ひ尽し、或は飢を忍びて一夜を明かし、或は人家に入りて食を乞ふなど、大和民族に似気なき振舞をなす者あり。

 これをもってみても当時の農業移民の困苦艱難(かんなん)が生易しいものでなかったのがわかるのであるが、ことに冬の間は農業労働の口は全くなく、木こりの仕事があるに過ぎなかった。
 定五郎は山へ入って、冬中、木をきり薪を作る仕事で過した。
春になった。定五郎はサンフランシスコの南方、サンノーゼにあるヒューム氏の果樹園にうまく職を見つけた。
 サンノーゼにきた定五郎は「裸でバラを背負うか、ヒュームの農園で働くか」という言葉を聞いた。その時は何の気なしに聞き流したが、間もなくその意味を身体で知った。
 ヒューム果樹園での仕事はプルーン拾いであった。広いプルーンの林の中には、小梅ほどの実がいっぱいに落ちている。4、50人の者が一列横隊になり、バケツに実を拾いながら進む。そして、そのあとからワッチマン(番人)が鞭を鳴らしながら追い立てるのである。とまることはおろか手を休めることも許されなかった。鞭は絶えず鳴った。労働はまさに過酷というべきものであった。しかもヒュームは水力と火力の発電装置を持っていて、拾い集めたプルーンはその日の中にゆでて乾燥することになっていた。それが全部済むまでは夜の何時まででも働かされた。それでいて、食費とボスのコムミッションとを差引いた賃金は僅か75セントだった。裸でバラを背負う以上の苦しさ― 定五郎はこれにも歯を食いしばって堪えぬいた。
 ここで働いているうちに満一年がめぐってきた。定五郎はこの一年間をふりかえって、自分ながらよくやり通して来たものだと思った。そしてまた、今後どういう仕事にぶつかってもやりぬくだけの自信が、身内にしっかり根を張っているのを感じた。

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