小田原の文学
明治以降、小田原には多くの文人が往来し、また多くの文人が生まれました。
作品を片手に作家ゆかりの地を訪ね、日本の近代文学の土壌を培った小田原の風土を再発見してみませんか。
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牧野信一(1896-1936)
出生地:小田原市栄町2-8-5
小田原に生まれ、早稲田大学卒業後まもなく新進の作家としてデビュー、私小説風の『父を売る子』幻想的な『村の ストア派』『吊籠と月光』などの作品を発表した。しかし、作家としての煩悶や厳格な母との確執、貧困、体の不調などに苦しめられ、やがて強度の神経衰弱に陥り、昭和11年、39歳で自ら命を絶った。
「長い間のあらくれた放浪生活の中で、私の夢は母を慕ふて蒼ざめる夜が多かった。母の許へ帰らねばならぬと考へた」
碑に刻まれたこの 一文は、死の2年前に書かれた『剥製』の一節である。
牧野信一文学碑
神奈川県小田原市城山3-29
北原白秋(1885-1942)
居住地:小田原市城山4-19-8
「赤い鳥小鳥 なぜなぜ赤い 赤い実をたべた
白い鳥小鳥 なぜなぜ白い 白い実をたべた
青い鳥小鳥 なぜなぜ青い 青い実をたべた」
北海道帯広の子守唄に材を得た童謡『赤い鳥小鳥』は、大正7年に発表、「最高の技法で近代童謡に昇華し得た」と賞賛された。この年白秋は33歳。この年から小田原に住むようになった白秋は、大正15年、東京に転居するまでの8年間、生涯で最も生気みなぎる創作活動を行った。
特に小田原地方の風物を折り込んだ作品を数多く作り、新しい童謡は芸術童謡と評価された。彼が住んだ伝肇寺(でんじょうじ)の境内には今は「木兎(みみづく)の家」も赤い屋根の洋館もない。
白秋が心ひかれた梅の老樹と榧(かや)の大樹、「赤い鳥小鳥」の碑、「みみづく幼稚園」という名が、 わずかなよすがであろうか。
関連情報リンク
北原白秋童謡碑(伝肇寺境内)
神奈川県小田原市城山4-19-8
井上康文(1897-1973)
出生地:小田原市本町2-4-38
小田原生まれの詩人。19歳のとき福田正夫と出会い、1918年の『民衆』の創立に参加した。「民衆派」と呼ばれるこの詩人グループは、大正デモクラシーの思想と呼応するように誕生し、口語自由詩で民衆の現実を描こうとした。
「山や丘の早春は、畑の土や梢の上に来たが、ふるさとの顔はひどく寂しい。
ふるさとの祭りの街にも、太鼓の音にも、もうあの少年時代の喜びは甦らない、それが、二重に私を寂しがらせる。」
井上康文詩碑
神奈川県小田原市城山3-29
尾崎一雄(1899-1983)
居住地:小田原市曽我谷津414
「富士は天候と時刻とによって
身じまひをいろいろにする
晴れた日中のその姿は平凡だ
真夜中
冴え渡る月光の下に
鈍く音なく白く光る富士
未だ星の光りが残る空に
頂近くはバラ色
胴体は暗紫色にかがやく暁方の富士」
祖父の代まで神官を努めた宗我神社入口にある尾崎一雄文学碑に刻まれた『虫のい ろいろ』の一節である。
病を得た尾崎は故郷の下曽我で闘病生活を送るが、それ以降の作品には、今まで見向きもしなかった虫や草などの自然に目を向けた作品が多く見られる。毎日伏して過ごしながら身の回りの小さな命に心を向け、しかし心は自由に外を跳ね回っていたに違いない。
福田正夫(1893-1952)
出生地:小田原市南町4-2-9
「われらは郷土から生まれる
われらは大地から生まれる
われらは民衆の一人である」
城山公園の一角にある民衆碑には『民衆』創刊号を飾った福田正夫の巻頭の辞が刻まれている。
教員をしながら処女作『農民の言葉』を出版、1918年、福田24歳の時、井上康文、加藤一夫ら小田原在住の同人たちと雑誌『民衆』を創刊、当時のデモクラシー思想を口語自由詩で楽天的にうたった。その新鮮な題材は注目されたが、デモクラシーの風潮の交代と相前後するように、同紙は3年後廃刊になる。
その後何度も詩 誌を主宰、文学志望の後輩を献身的に育て、天真爛漫で抱擁力の大きい彼の人柄を慕って多くの詩人が福田家に出入りしたという。
川崎長太郎(1901-1985)
出生地:小田原市浜町3-3-3
居住地:小田原市浜町3-3-6、中里402(晩年)
小田原に生まれ、小田原を舞台に小説を書いた。特に小田原の娼婦街 「抹香町(まっこうちょう)」の女たちを描いて、抹香町の名を全国的に有名にした。
「このところ、十余年、屋根もぐるりもトタン一式の、吹き降りの日には、寝ている 顔に、雨水のかかるような物置小屋に暮らし、いまだに、ビール箱を机代りに、読んだり書いたりしている。」
文学を志して上京し、辛酸をなめながら精進続けた長太郎は、36歳で小田原に戻り 、『抹香町』の冒頭部分の生活そのままに、小田原海岸の物置小屋に暮らしながら“ 抹香町もの”を発表した。24年間住んだ物置小屋は今はなく、西湘バイパスを車が行き交うばかりである。
北村透谷(1868-1894)
「恋愛は人生の秘鑰(ひやく)なり、恋愛ありて後人生あり、恋愛を抽き去りたらむ には人生何の色味かあらむ」
『厭世(えんせい)詩家と女性』巻頭の一節は、当時の人々に大きな感銘を与えた革命的恋愛論であった。青春をかけた政治運動に敗北、奈落を味わった透谷の精神は妻ミナとの恋愛によって蘇る。「楚囚の詩」にその清純な愛が歌われるが、現実の結婚生活で再び絶望を味わう。『厭世詩家…』ではそうした欝屈(うっくつ)した気持ちが描かれる。現世での絶望ゆえに、想念の世界に現実性を求める透谷の世界は開花したといえようか。
近代浪漫主義文学の先駆者として明治初期の文学界で指導的な役割を演じたが、後に健康を害し、25歳で自ら命を断った。現在、小田原文学館敷地内にある透谷碑の碑文は、 終生彼を慕った島崎藤村の手になるものである。
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