小田原ゆかりの著名人
北条早雲
明応4年(1495年)より、小田原を治め、以後豊臣秀吉の小田原攻めにより滅亡に至るまで小田原北条氏5代100年に続く繁栄の礎を1代で築きました。北条早雲とは死後に付けられた名前であり、出家前は「伊勢新九郎盛時」、出家後は「早雲庵宗瑞」と名乗っていました。
大久保忠隣
小田原第2代藩主大久保忠世の長男で、豊臣秀吉、徳川家康、徳川秀忠につかえました。しかし、この忠隣の時に大久保家は改易となり、その5年後に阿部氏が入封するまで、小田原藩は幕府が指名した譜代大名と旗本が交代で城番をつとめた番城となりました。
稲葉正則
江戸初期の小田原藩主稲葉家第2代。幕府の老中として24年間国政を担いました。祖母は春日局です。稲葉氏は寛永9年(1632年)~貞享2年(1685年)の3代約50年間、小田原藩主でした。現在、稲葉氏一族の墓所が、長興山にあります。
大久保忠真
小田原藩主、加賀守。大阪城代、京都所司代、老中など幕府の要職を歴任しました。特に晩年は老中主座を務め、名君と慕われました。藩政においても農民二宮尊徳を登用しました。初代大久保忠世から数えると11代目にあたります。
二宮尊徳(金次郎)
栢山に生まれた二宮尊徳(二宮金次郎)は、小田原藩の家老服部氏の財政建て直しなどの業績が当時の藩主大久保忠真の目に止まり、士分に取り立てられ小田原藩の支藩である宇津家の桜町領(現在の栃木県)の復興を命じられ、成功させます。このことから多くの藩より財政の建て直しを依頼されるようになり、農聖と慕われるようになりました。今でも「報徳」「報徳仕法」の名は全国に残っています。
福住正兄
二宮尊徳の高弟。箱根湯本の旅館福住に養子に入り、家業を立て直しました。また、小田原藩校集成館で藩士を教えました。「二宮翁夜話」を著し、報徳仕法を広めました。報徳二宮神社には、石碑があります。
村井弦斎
明治・大正のジャーナリストで小説家。明治36年~37年に現在の南町付近に居住していました。代表作には「食道楽」などがあります。
北村透谷
浜町の旧藩医の家に生まれました。明治初期の文学界で指導的役割 をはたし、近代浪漫主義の先駆者と呼ばれました。代表作に「厭世詩家と女性」などがあります。
また、北村透谷の碑が小田原文学館にありますが、この碑に刻まれている「北村透谷に献ず」という碑文は島崎藤村の筆になり、そのデザインは小田原出身の彫刻家である、牧雅雄の手になるものです。
北原白秋
明治の詩人。大正7年3月~大正15年5月の約8年間の小田原での生活で、「赤い鳥」など多くの童謡を発表しました。小田原での生活は快適で、終生小田原で暮らすことも考えていたといわれています。しかし、関東大震災で住居が半壊し、東京に戻ることとなりました。
辻村伊助
植物学者、登山家。兄の常助氏とともに辻村植物公園を開きました。また、「スウィス日記」と「ハイランド」の2編は、日本登山文学の名著、最高峰と呼ばれる。しかし、大正12年(1923年)に起こった関東大震災の際、家族とともに土砂に埋没し、38年の短い生涯を閉じました。
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