歴史資料・二宮尊徳関係資料
二宮尊徳関係資料(神奈川県指定歴史資料)
【所有】 個人
【所在】 小田原市尊徳記念館、報徳二宮神社、報徳博物館
【内訳】 昭和56年2月10日指定 書状類ほか404点
昭和62年2月20日指定 書状類ほか1359点
平成7年2月14日指定 書状類ほか2109点
【概説】
二宮尊徳の幼名金次郎の行いは、戦前まで修身(道徳)の教科書に載っていたので広く知られていますが、成人期の業績は、意外に知られていません。
尊徳は、家を再興した後、文化14年(1817)に結婚しますが、この頃、大久保藩の家老服部家の財政立て直しを依頼され、成功させます。また、生活に苦しむ藩士のために、五常講(仁、義、礼、智、信の五つの徳を実践し、藩士間で出資、貸出する金融組織)を始めます。
これらの業績が、藩主大久保忠真の目にとまり、士分に取り立てられて、小田原藩の支藩宇津家の桜町領(栃木県)の復興を命じられます。
このため尊徳は、文政6年(1823)一家で移住し、復興に着手しますが、土地や人心の荒廃で思うにまかせず、一時、成田山にこもったりしますが、復興を成し遂げます。
これを知った他の藩は、天保7年(1836)の大凶作後、相次いで尊徳に農地などの立て直しを依頼しました。
天保13年(1842)尊徳は幕府に認められ、直臣となって利根川分水路計画の調査を命じられますが、これは実行に移されませんでした。
その後、真岡(栃木県)、相馬(福島県)などを手がけたほか、嘉永6年(1853)に日光の復興に着手しましたが病に倒れます。
そして、最後の住所となった今市(栃木県)で、安政3年(1856)10月20日70歳の生涯を閉じます。
二宮尊徳は、このように一介の農民から幕臣となったわけですが、彼の偉大さは、農政、土木、経済、思想などに業績を残したことにあり、全国に「報徳」の名が残っています。
なお、小田原市は、日光市(旧今市市)と姉妹都市になっていますが、二宮尊徳が縁で結ばれたものです。