歴史資料・紹太寺の境内絵図 1幅
(しょうたいじのけいだいえず)
概説
稲葉正則(いなばまさのり)が延宝7年(1679)に紹太寺の寺地の伽藍(がらん)配置や境界などについて、後々の証のために作成したものです。
かつては、広大な寺地と仏殿、禅堂、斎堂、開山堂、祠堂(しどう)、経蔵(きょうぞう)、書院、鐘楼など七堂伽藍の整った一大寺院であったことを伺うことができます。
また、参道の左右には、清雲院(せいうんいん)、梧穉院(ございいん)、報恩庵(ほうおんあん)の子院が描かれ、下部には寛永12年(1635)に山角町(やまかくちょう・現南町)に建立されたことや寛文9年(1669)にこの地に移されたことなどが記されています。
小田原城主稲葉正則は、両親の追福のため城下の山角町に紹太寺を建立しました。建立当時は臨済宗の寺院でした。
寛文9年の移転にあたり、開山に鉄牛道機を招き黄檗宗に改めています。
紹太寺は弘化4年(1847)の火災で、経蔵、鐘楼、楼門、総門のみを残して灰燼に帰し、さらにその後の度重なる火災でこれらの建造物もほぼ失われてしまい、火災から難を逃れた子院の清雲院が現在の紹太寺となっています。
本図は、制作年代が判明する市内でも数少ない寺領絵図であり、貴重です。
かつては、広大な寺地と仏殿、禅堂、斎堂、開山堂、祠堂(しどう)、経蔵(きょうぞう)、書院、鐘楼など七堂伽藍の整った一大寺院であったことを伺うことができます。
また、参道の左右には、清雲院(せいうんいん)、梧穉院(ございいん)、報恩庵(ほうおんあん)の子院が描かれ、下部には寛永12年(1635)に山角町(やまかくちょう・現南町)に建立されたことや寛文9年(1669)にこの地に移されたことなどが記されています。
小田原城主稲葉正則は、両親の追福のため城下の山角町に紹太寺を建立しました。建立当時は臨済宗の寺院でした。
寛文9年の移転にあたり、開山に鉄牛道機を招き黄檗宗に改めています。
紹太寺は弘化4年(1847)の火災で、経蔵、鐘楼、楼門、総門のみを残して灰燼に帰し、さらにその後の度重なる火災でこれらの建造物もほぼ失われてしまい、火災から難を逃れた子院の清雲院が現在の紹太寺となっています。
本図は、制作年代が判明する市内でも数少ない寺領絵図であり、貴重です。
この情報に関するお問い合わせ先
文化部:文化財課
電話番号:0465-33-1717