開催時の様子

開催時の様子

メインスタンド付近全景

メインスタンド付近全景

大正14年(1925)10月の第1回開催では、3日間で6万人もの観客が小田原の競馬に沸きました。馬券は、1枚1円。(そのころのアルバイト従業員の賃金が日当約50銭)。当時、競走馬専用の厩舎はなく、近くの農家の馬屋や牛小屋を借りていました。小屋を貸した農家の人々は、いくらかの謝礼金を受け取り、そのお金で馬券を買っては競馬を楽しんでいました。ただし、その馬券で富を得た、という話はあまり聞かなかったようです。競馬場は熱気で包まれ、その雰囲気は、まるでお祭りのようでした。開催日には、花火が打ち上げられ、観覧席には売店や飲食店が客を集めていました。

ゴール寸前(1)

ゴール寸前(1)

開催地をめぐって国府津と1年間に及ぶ誘致合戦の末、小田原の谷津に花岳競馬場が誕生した。足柄下郡の第1回競馬は大正14年(1925)6月に国府津で4日間、小田原ではその秋10月1日から3日間開催され、いずれも予想以上の盛況を見ました。

(この写真は「広報おだわら」8月1日号の表紙に使われたものです)

ゴール寸前(2)

ゴール寸前(2)

国府津競馬では予想を越え9万円以上の収益をあげ、小田原開催はさらにそれを上回るものと期待されていました。小田原と国府津の開催地争いはまだ続いていました。

観客席より見たゴール(1)

観客席より見たゴール(1)

翌大正15年(1926)2月に下郡畜産組合のあっせんで、競馬場は小田原、屠殺場は国府津に設けることで一応決着しました。5月の小田原競馬の3日目にあたる11日には6万もの見物人が押しかけ、投票馬券は毎日8千以上であったといいます。

観客席より見たゴール(2)

観客席より見たゴール(2)

小田原競馬は小田原の震災復興資金となることが期待され、そうした趣旨に賛同した人たちは、競馬場造成資金を立て替えるなど積極的な推進者となりましたが、数字上は高収益が伝えられているにもかかわらず、事前投資への返済はなく、相当な負債を負ったまま手をひいています。

第3コーナーからゴール付近

第3コーナーからゴール付近

小田原競馬は昭和5年(1930)まで続けられたが、経営体制に対する批判が少なくなかった模様で翌年には県の許可がおりなかったようです。

(大正15年10月23日)

着順発表掲示板付近

着順発表掲示板付近

 

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