史跡石垣山
石垣山は、天正18(1590)年に豊臣秀吉が小田原北条氏を滅ぼすべく、山頂に石垣を高く積んだ堅固な城を築いたことから呼ばれるようになりました。それ以前は、笠懸山、松山又は西ノ高山等と呼ばれていました。
石垣山に築かれたこの城は、石垣山一夜城又は太閤一夜城と呼ばれています。その理由は、一般に、秀吉が一夜のうちに築いた城だからと古くからいわれています。また、「関八州古戦録」や「小田原記」等の古い書物に、「初め山頂の林中に陣営の塀や櫓の骨組みを作り、杉原の白紙をその上に張って白壁を塗りあげたように見せかけて、一夜のうちに樹木を伐採したので、夜明けて小田原城中から仰ぎ見た城兵が驚いて・・・」という記述があります。
石垣山一夜城の実際の築城は、天正18(1590)年4月頃から着手し、同年6月下旬に完了しました。この際、動員された人員は約4万人です。秀吉がこの城にとどまったのは、小田原合戦の100日余りで、淀殿や千利休等も50日余り滞留しました。この合戦以降、この城郭は利用されず、江戸時代の数度の大地震で石垣の大半が崩壊しました。この城は、関東で最初に「穴太式野面積み」で築城された「石垣城」であり、規模も大きく曲輪の配置も綿密で、安土桃山時代の典型的な陣城である貴重な城郭です。