史跡 ・中世集石墓
中世集石墓(市指定 昭和32年3月30日)
【所有】個人
【所在】久野3261
【形状】
この遺構は、昭和26年3月に久野遺跡調査会によって発掘され、後日、神奈川県文化財専門委員であった石野瑛等によって調査されました。検出された敷石遺構は6.5m×3.8mほどの範囲に、大・小126個ほどの河原石が敷かれているもので、縄文時代晩期から弥生時代の敷石住居址と推定されましたが、土器は出土していません。敷石やや西寄りには土坑があり、この土坑からは多くの火葬骨と13世紀中頃の愛知県常滑産の甕が出土しています。
【概説】
石野瑛は敷石遺構について、時代判定は困難であるとしながらも、縄文時代晩期から弥生時代のものと推定し、「高低凸凹、諸所空隙があって敷石面は不整合である。遺物としては敲き石が二個出ているが、土器は発見されていない。敷石の中程より西寄りに室町期の陶器(甕形)を伏せて、中に火葬骨を充填してあった。時代の異なった遺跡が重なったものである。」と、同一の場所からまったく異なった時代の遺構が重なって発見された貴重な事例と述べています。
しかし、最近の研究では、ここで検出されたような敷石遺構は敷石住居址ではなく、集石墓と呼ばれる中世の墓であるとの見方が有力です。集石墓とは、13世紀前半から中頃にかけて多く築かれ、主に人頭大の石を用いて区画をし、内部に河原石を敷き詰めて蔵骨器を埋納する形態のものです。この遺跡の場合も、大型の常滑産の甕を蔵骨器、もしくは蔵骨器の外容器として用いた墓であると考えられます。
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