千代寺院跡(千代廃寺)
奈良・平安時代の千代には、寺院が建てられていました(通称「千代寺院跡」「千代廃寺」)。1950~51(昭和25~26)年に千代中学校の校庭造成のために、県道沿いの千代字北町で土取り工事が行われ、鬼瓦を含む大量の瓦などが採集されています。
1958(昭和33)年に寺院跡の実態解明を目的とした最初の発掘調査が行われました。現在忠魂碑の建つこの場所も、台ノ塚と呼ばれ、1960(昭和35)年に発掘調査が行われています。いずれも、明確な寺院の痕跡は見つかりませんでした。その後の発掘調査でも、具体的な姿が明らかにならず、千代寺院跡は謎に包まれた状態が長く続きました。
2006(平成18)年に千代字南原で行われた千代南原遺跡第24地点で、主要建物の基礎(基壇)跡が検出されました。初めての建物跡の発見で、千代寺院跡の実態解明の大きな一歩となりました。また、低地の千代南原遺跡第7地点では、公的な施設の存在を示す木簡2点が出土しているほか、千代仲ノ町遺跡第4地点では、寺院などの厨房施設を意味する「厨」の文字が記された墨書土器が出土するなど、寺院の様子が次第に明らかになっています。
かつては、千代の寺院を東大寺式の伽藍配置を持つ初期国分寺とする説もありました。近年では、8世紀初頭に地元の豪族によって造営され、8世紀末から9世紀前半に修復された後、10世紀前半まで存続した寺院と考えられています。また、伽藍配置も法隆寺式であった可能性が指摘されています。永塚・下曽我遺跡に推定される古代の役所である足下郡家とともに、地方行政の中心であったようです。
千代寺院跡(千代廃寺)の説明板
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