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2025年06月03日(火)

京都「祇園祭」と小田原①

 戦国時代に小田原城主として五代約100年間にわたり、城下の安寧を築いた小田原北条氏。毎年5月の小田原北條五代祭りの武者行列がおなじみですが、その初代北条早雲が結んだご縁が、国内三大祭りの一つといわれる京都「祇園祭(ぎおんまつり)」にもつながっていることを知る人は、あまり多くありません。
 本レポートでは、この祇園祭を通じて深く結びついている、小田原と京都の「時を超えたご縁」について、ご紹介したいと思います。
北条早雲が結んだ京都・小田原のご縁
小田原駅西口の北条早雲像(北条五代祭りで兜と陣羽織を着衣)小田原駅西口の北条早雲像(北条五代祭りで兜と陣羽織を着衣)
 早雲はかつて京都や三重(伊勢)などにいて、伊勢新九郎盛時、のちに伊勢宗瑞(いせそうずい)と名乗っていました。しかし時代は、応仁の乱をはじめとする戦乱の世。早雲は、関東で理想の国を造ろうと、京都を離れます。
 そしてやってきたのが小田原の地。早雲は、自身の仕事と城下の繁栄を目指し、京都で医薬師として活躍していた陳外郎宇野藤右衛門定治(ちんういろううのとうえもんさだはる)を小田原に招きました。
小田原市本町「ういろう」本店小田原市本町「ういろう」本店
 この藤右衛門定治は、現代の小田原の、薬と菓子の老舗「ういろう」の社長・外郎藤右衛門さんのご先祖様。650年以上前に大陸から渡来した外郎家の始祖から数えて5代目が藤右衛門定治で、社長の外郎さんは25代目。小田原北條五代祭りを主催する小田原市観光協会の会長も務めています。
 外郎家が京都から移り500年以上になりますが、代々この小田原で、まちの未来を支える1人となっていることを、早雲もきっと喜んでいるのでは。
 さて、ここまでの流れですでにお察しいただけたでしょう。冒頭ご紹介した京都「祇園祭」とのつながりには、このように早雲が結んだご縁で招かれた外郎家が関わっています。
小田原「ういろう」と祇園祭の蟷螂山
京都駅構内の祇園祭の展示 華やかな山鉾のミニチュア京都駅構内の祇園祭の展示 華やかな山鉾のミニチュア
 毎年7月に行われる京都の祇園祭は、平安時代の疫病退散を願う行事が起源とされ、前祭(さきまつり)と後祭(あとまつり)の山鉾巡行(やまほこじゅんこう)は大変人気があり、全国から多くの観光客が詰めかけます。
 絢爛豪華な山や鉾は、疫病退散の願いを込めて作られたとされ、山鉾巡行は、八坂神社の神輿が渡御する前に、都大路を祓い清めるための行事として行われています。
蟷螂山のカマキリ蟷螂山のカマキリ
 2024年現在、巡行に参加している山と鉾の数は、前祭(毎年7月17日)23基、後祭(同24日)11基。その中で唯一、からくり仕掛けの「カマキリ(蟷螂)」を載せた「蟷螂山(とうろうやま)」を室町時代に創始したのが、小田原の外郎さんのご先祖様にあたります。
 外郎家の祖先、陳外郎大年宗奇(ちんういろうたいねんそうき)は中国・明の渡来人。父の陳延祐(ちんえんゆう、外郎家初祖)とともに日本へ渡来し、室町時代に足利義満将軍の招きで京都に屋敷を構え、医薬師や外交で活躍しました。
 その当時、外郎家の住まいがあったのが、現在の京都市中京区蟷螂山町。南北朝時代に足利義詮軍に挑んで戦死した公卿、四條隆資(しじょうたかすけ)卿の屋敷も近くにありました。
強敵に向かう蟷螂 中国の故事に由来
からくりで動くカマキリを載せた螳螂山からくりで動くカマキリを載せた螳螂山
 大年宗奇は1376(永和2)年、隆資卿の死後25年の節目に、四條家の御所車に蟷螂を乗せて巡行しました。これが蟷螂山の始まりといわれています。
 隆資卿の勇敢な戦いぶりが、強敵に立ち向かうさまを表す中国の故事「蟷螂の斧(とうろうのおの)」のようだったのにちなんだと伝えられています。
 
 その後、外郎家は小田原へ移り、京都の祭事と次第に関わらなくなりましたが、祇園祭での蟷螂山の巡行は、地元町衆によって長く続いていきました。
 しかしそんな中、江戸時代末期に京都で勃発した「蛤御門の変」で、蟷螂山はその大半を焼失。明治から大正、昭和までの約110年間、蟷螂山は、巡行から姿を消してしまったのです。
住民たちの努力で巡行と交流が復活
螳螂山の巡行螳螂山の巡行
 それでも、現代の蟷螂山町の住民たちは、蟷螂山の巡行復活をあきらめませんでした。その努力の甲斐あって、蟷螂山は1981年に復活を成し遂げます。
人間国宝羽田登喜男さん作 友禅染めの前掛人間国宝羽田登喜男さん作 友禅染めの前掛
 「復活」と言葉にするのは簡単ですが、からくりのカマキリや、山を飾る懸装品(胴懸、前懸、後懸、水引、見送り、裾幕)を、かつてのように格調高く仕上げなければ、本当の復活にはなりません。成し遂げるには、歴代の蟷螂山町住民、初期の保存会役員には大変な苦労がありました。その結果、時間はかかりましたが、蟷螂山の懸装品は、人間国宝の羽田登喜男さんによる友禅染めの、美しく見事なものが完成しました。
小田原から参加した、伊藤さん、外郎さん、齋藤さん(左から)小田原から参加した、伊藤さん、外郎さん、齋藤さん(左から)
 この復活は同時に蟷螂山の歴史を見直す機会にもなり、その後の創始・外郎家との交流復活にもつながっていきます。そして2011年、蟷螂山復活30周年記念の年に、蟷螂山保存会の呼びかけで、
​ 小田原の外郎さんが巡行に参加。京都では、「約500年ぶりに外郎家が蟷螂山に戻ってきてくれた」とあたたかく歓迎されたそうです。
 以来、外郎さんご一家と、老舗ういろうの社員の皆さんが祇園祭の蟷螂山に協力。コロナ禍で中止となった2020年を除いて毎年、祇園祭の山鉾巡行に参加してきました。
 小田原にある日本最古級の老舗ういろうと、京都の祇園祭・蟷螂山のこうしたつながりを知る人は、まだあまり多くありません。外郎さんは、ご自身が京都と小田原の交流を深める懸け橋になれればと願っています。 (②へ続く)
山鉾巡行の出発記念写真(2024年、京都・螳螂山町)山鉾巡行の出発記念写真(2024年、京都・螳螂山町)
記:予史重

2025/06/03 15:22 | 歴史

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