戦国時代に小田原城主として五代約100年間にわたり、城下の安寧を築いた小田原北条氏。毎年5月の小田原北條五代祭りの武者行列がおなじみですが、その初代北条早雲が結んだご縁が、国内三大祭りの一つといわれる京都「祇園祭(ぎおんまつり)」にもつながっていることを知る人は、あまり多くありません。
本レポートでは、この祇園祭を通じて深く結びついている、小田原と京都の「時を超えたご縁」について、ご紹介したいと思います。
外郎家が京都から移り500年以上になりますが、代々この小田原で、まちの未来を支える1人となっていることを、早雲もきっと喜んでいるのでは。
さて、ここまでの流れですでにお察しいただけたでしょう。冒頭ご紹介した京都「祇園祭」とのつながりには、このように早雲が結んだご縁で招かれた外郎家が関わっています。
絢爛豪華な山や鉾は、疫病退散の願いを込めて作られたとされ、山鉾巡行は、八坂神社の神輿が渡御する前に、都大路を祓い清めるための行事として行われています。
外郎家の祖先、陳外郎大年宗奇(ちんういろうたいねんそうき)は中国・明の渡来人。父の陳延祐(ちんえんゆう、外郎家初祖)とともに日本へ渡来し、室町時代に足利義満将軍の招きで京都に屋敷を構え、医薬師や外交で活躍しました。
その当時、外郎家の住まいがあったのが、現在の京都市中京区蟷螂山町。南北朝時代に足利義詮軍に挑んで戦死した公卿、四條隆資(しじょうたかすけ)卿の屋敷も近くにありました。
その後、外郎家は小田原へ移り、京都の祭事と次第に関わらなくなりましたが、祇園祭での蟷螂山の巡行は、地元町衆によって長く続いていきました。
しかしそんな中、江戸時代末期に京都で勃発した「蛤御門の変」で、蟷螂山はその大半を焼失。明治から大正、昭和までの約110年間、蟷螂山は、巡行から姿を消してしまったのです。
以来、外郎さんご一家と、老舗ういろうの社員の皆さんが祇園祭の蟷螂山に協力。コロナ禍で中止となった2020年を除いて毎年、祇園祭の山鉾巡行に参加してきました。
小田原にある日本最古級の老舗ういろうと、京都の祇園祭・蟷螂山のこうしたつながりを知る人は、まだあまり多くありません。外郎さんは、ご自身が京都と小田原の交流を深める懸け橋になれればと願っています。 (②へ続く)