常盤家文書 

昭和54年度寄贈
この文書は襖の下張りとして使用されていたもので、全体に茶褐色に変色しています。また、前後上下が欠けたものが多いのもこのためと考えられます。
安永3年(1774)から文政4年(1821)までの史料全89点であり、目録化にあたっては一括編年目録としました。内訳は、寺替証文が31点、箱根温泉場に関するものが15点、酒匂川増水時に関するものが8点、その他35点です。藩へ公式に提出されたもののほか、案文や下書きが含まれています。
寺替証文31点の内、年号のわかるのは25点です。差出人のほとんどが御厨領(現在の御殿場市周辺)の寺院で受取人は藩の寺社奉行所です。
箱根温泉場に関するものは、宮之下・木賀・堂ヶ島・塔ノ沢・芦野湯・底倉の各温泉場から地方奉行所へ入湯者等を報告したもので、藩が湯治者の氏名や湯の汲み出しの有無を把握していた様子がわかります。
酒匂川増水時に関するものは、酒匂川の増水による川越賃銭の増額を願い出たものや、御用状箱の到着の遅延を届け出たものが目立ちます。
常盤家文書は、恐らく元々は藩の要職にあった家に伝来したものと考えられ、明治時代以降に処分され、襖の下張りに転用されたとみられます。古文書を襖や行李の下張りへ転用することは、かつては日常的に行われていました。

資料目録

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ピックアップ資料紹介

No.5 底倉湯入之書上 

底倉湯入之書上 

底倉湯入之書上 

安永10年(1781)、底倉村の組頭文左衛門が藩の地方役所に温泉の入湯者などを報告したものです。底倉村にある底倉温泉は箱根七湯の一つで、江戸時代以前から湯治場として有名でした。
底倉村に限らず温泉を持つ村々は、10日ごとに藩の地方役所に入湯者の氏名・居住地そして宿泊先を報告すると共に汲湯の有無を報告することが義務付けられていました。
底倉温泉は蛇骨川沿いの谷沿いの温泉場であり江戸時代には4軒の温泉宿があったことが知られています。
【釈文】

No.13 覚(境内えんじゅの木立ち枯れに付)

覚(境内えんじゅの木立ち枯れに付)

覚(境内えんじゅの木立ち枯れに付)

天明元年(1781)荻窪村の大聖院が藩の屋敷方奉行所へ境内の槐(えんじゅ)が立ち枯れてしまった事を報告した文書の案文もしくは写とみられるものです。
藩に報告した理由は不明ですが、槐は「縁起のよい木」と考えられていたことが知られており、そのことが関係しているのかもしれません。
【釈文】

No.27 一札(寺替に付)

一札(寺替に付)

一札(寺替に付)

駿河国駿東郡深沢村(現在の御殿場市)の大雲院が小田原藩の寺社奉行所に提出した、いわゆる寺替証文と呼ばれるものです。
寺替証文は、村人が結婚や養子縁組で他村に異動する際、異動元の旦那寺が、その村人が確かに檀家であったことと、異動先の寺院の檀家になることに異議がないことを証明するもので、小田原藩の場合は寺社奉行所に提出することになっていました。 
現在の静岡県御殿場市・小山町一帯は御厨領と呼ばれ、江戸時代の大半の期間、小田原藩領に組み込まれていました。
【釈文】

No.40 游越を以乍恐御注進申上候御事

游越を以乍恐御注進申上候御事

游越を以乍恐御注進申上候御事

酒匂村の名主が藩の地方役所に、酒匂川の川越しが出来なくなっている状況を報告したものです。
年不詳ですが、丑年の7月下旬の洪水被害を他の史料から探してみると天明元年(1781)の可能性が指摘できます。内容を見ると、7月27日の午前中には馬付き越しができなくなり、午後には徒歩渡しもできなくなり、29日になっても渡れない状況が記されています。
なお、表題の「游越を以」は、酒匂村の村民が増水している酒匂川を泳いで渡り、藩へ状況を報告した様子を示したものとみられます。
【釈文】

No.41 一札(酒匂川川留御状滞留に付)

一札(酒匂川川留御状滞留に付)

一札(酒匂川川留御状滞留に付)

小田原宿の御継頭と山王原村の名主が大磯宿より先々の問屋へ、酒匂川が川留になったため、御用状箱が小田原宿で滞留していた状況を伝えたものの、案文もしくは下書きです。
内容を見ると、7月22日に伊勢国関宿から発送された御用状箱は、5日後の7月27日には小田原宿に到着している様子や、7月27日の大雨により洪水が発生し、8月1日になってようやく酒匂川を越すことがわかります。書状の到着が遅れることを、書状を継ぎ送る先々の問屋に知らせることで、継ぎ送りの円滑な運用を図ったものと考えられます。
年未詳ですが、やはり天明元年(1781)のものとみられます。御用状箱を送った牧野越中守は京都所司代を務めていた笠間藩主牧野貞長で、松平右京大夫は老中首座を務めていた高崎藩主松平輝高とみられます。
【釈文】

No.45 覚(屋敷方小奉行昼食米受取に付)

覚(屋敷方小奉行昼食米受取に付)

覚(屋敷方小奉行昼食米受取に付)

差出人が記されていませんが、屋敷方小奉行として勤務した9月分の昼食代金7升5合を受け取った領収書です。屋敷方小奉行がどのような役職なのか残念ながら不明です。
この資料は、他の常盤家文書や小田原藩に関する資料から推定すると、安政4年(1857)千駄ヶ谷にあった藩の抱屋敷の改修に関するものとみられます。千駄ヶ谷の抱屋敷は嘉永4年(1851)に設けられ、慶応4年(1868)大総督府に没収されるまで藩の施設として機能しました。
【釈文】

No.46 覚(屋根葺替等金子受取に付)

覚(屋根葺替等金子受取に付)

覚(屋根葺替等金子受取に付)

屋根屋彦次郎が藩の作事奉行所に対し、千駄ヶ谷屋敷の稲荷社の屋根等葺き替え工事に関する代金を領収したことを証したものです。
この代金の中には、稲荷社の屋根だけではなく、門の脇の雪隠(トイレ)も含まれていることも記されています。
千駄ヶ谷の抱屋敷については前の史料でみたとおりです。
【釈文】

No.51 覚(有道院御治療代銭に付)

覚(有道院御治療代銭に付)

覚(有道院御治療代銭に付)

藩主大久保忠愨の病気治療のため青橙3俵を取り寄せた際に掛かった経費を、藩の雑用奉行あてに請求したものです。差出人の日並以下3名は江戸詰めの藩役人とみられます。
忠愨は藩主在任中の安政6年(1859)11月晦日に死去し、12月に法要が営まれ有道院の院号が贈られています。したがって、この資料の「申年」は忠愨が亡くなった翌年の安政7年(1860)であることがわかります。
【釈文】

この情報に関するお問い合わせ先

文化部:生涯学習課 郷土文化館係

電話番号:0465-23-1377

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