レポーターブログバナー
2026年04月30日(木)

北条氏綱が近衛家へ白鳥を贈ったワケ

 北条早雲は、自分自身で北条早雲と名乗ったことはない。早雲は、室町幕府の中心である政所執事を世襲する伊勢氏の出身であり、「伊勢盛時(いせもりとき)」が正式な姓名で、通称「新九郎」である。出家後の号が早雲庵宗瑞(そうずい)である。署名は「伊勢宗瑞」であった。伊勢宗瑞自身も、9代将軍・足利義尚の申次衆や奉公衆で幕府の要職に就いていた。以前は伊勢の素浪人の出身と云われたが、京の名門中の名門の出身であることが近年の研究で明らかになった。
 戦国時代の小田原は、伊勢氏(北条氏)5代が関東を治めた中心都市であった。中でも第2代当主の伊勢氏綱は、父・伊勢宗瑞の嫡男(ちゃくなん)であり、拠点としての小田原城を築城し、姓を伊勢氏から北条氏と替えて、父の志を受け継ぎ北条家の基盤を固めた。氏綱は長享元年(1487)宗瑞が32歳のときに生まれた。氏綱の正室は養珠院殿春苑宗栄(しゅんえんそうえい)で、第三代当主となる北条氏康を生んだ。しかし、正室の出自も事跡も明らかではない。正室が亡くなった後の程なくして、氏綱は関白・近衛尚通(このえひさみち)の娘である「北の藤」を継室に迎えた。このとき、近衛家と北条家の間で、婚礼祝い品贈答の遣り取りが行われた。北条家からの贈物は、「白紬十端」「白鳥一」であった。この「白鳥一」とは何か?京の公家筆頭の近衛家と関東の地方大名である北条家との婚礼の贈物の謎を探ってみよう。
1.白鳥の贈り物

 小田原城天守閣下の北側にある「御用米曲輪(ごようまいくるわ)」で、北条氏時代の庭園跡が出土した。この場所は、小田原城を訪れた賓客を接待するための迎賓館と庭園であったのではないか、という説がある。北条氏の時代に、京都にも類を見ない構造の庭園造りがされていた。小田原はまさに小京都であった。北条氏の小田原には、京文化に見紛うほどの文化が花開いていたことは間違いないであろう。静岡の駿府の地も、「西の大内、東の今川」と呼ばれたほど京文化に満ちていた。今川氏との縁が深い北条氏は、京都―駿府―小田原と結ばれる文化ラインを重要視したが、それは京都の公家や文化人をつなぐ文化人脈ラインでもあったと云える。このように北条家は、伊勢宗瑞の代からの京との繫がりを大事にしていた。この繫がりから北条氏綱は公家筆頭の近衛家から継室を迎えることができ、荘園収入が激減し経済的に厳しい近衛家としても、有力地方大名との婚姻関係を結べば経済的にも潤うことができたのではないかと推察される。
 北条氏綱の正妻・養珠院は大永7(1527)年7月に亡くなった。その後4年を経た享禄4(1531)年、関白近衛尚通の娘「北の藤」を継室に迎えた。既に父・伊勢宗瑞は永正16(1519)年に亡くなっていたため、氏綱は北条家の当主となって既に12年の歳月が経っていた。伊勢氏から北条氏へと姓を替えた氏綱としては、単に関東の名家筋の北条氏を名乗るだけではなく、自身も京の名家伊勢氏であったとする体裁を整える必要があったのではないか。一地方大名ではなく、駿府の今川氏のように京とも強い繫がりがあることは、関東における北条氏の権威付けに是非とも必要であったのだろう。北条氏綱と近衛尚通とは、婚礼以前より関係があった。五摂家(ごせっけ)筆頭の近衛家当主であった近衛尚通は、右大臣から関白へ、更に太政大臣から准三宮(じゅんさんぐう)に叙せられたほど出世を遂げた人物である。尚通は朝廷における地位だけでなく、京の公家文化を代表する文化人で能書家であった。その近衛尚通の日記である「後法成寺(ごほうじょうじ)関白記」によると、享禄3年(1530)2月17日に、近衛家から北条氏綱へ贈物が送られたと記されている。
 「北条左京大夫許付春日野百反」と記述がある。
これは近衛尚通が北条氏綱へ春日野百反を送ったことを記している。「春日野」とは、奈良名産の麻織物である。当時の麻織物は貴重な高級品であった。貴族は晒した細い麻糸を織った麻上布を着ていたが、庶民は下布・中布を着ていた。この日には、近衛尚通は、北条家の他に今川氏へ古今集と春日野百反を送っている。
 そして、享禄4年(1531)3月28日の日記には、「北条左京大夫白紬十端白鳥一送之」と記述がある。北条氏綱が近衛尚通へ、白紬(しろつむぎ)10反と白鳥1羽を送っている。これが意味するところについては、享禄4年7月5日の記述が示しているようだ。
 7月5日の日記には、「宇野藤右衛門来、遣返事、北条京兆江御事也」とある。その頃の小田原外郎家(ういろうけ)の当主は、陳外郎宇野藤右衛門定治(ちんういろう うのとううえもん さだはる)である。将軍足利義政から足利氏の祖籍である宇野源氏の姓を賜って、定治は宇野大和守源方治と称していた。そして、永正元(1504)年に小田原に移住したのである。京都の外郎家は定治の弟が継ぎ、外郎家は京都と小田原の二家となった。「京兆(きょうちょう)」とは、左・右京太夫のことであり、北条左京太夫、即ち北条氏綱のことである。近衛尚通は、北条氏綱の「御事」の返事を外郎藤右衛門へ与えた。このことから、恐らく享禄4年7月頃に、氏綱と北の藤との婚礼が成立したのではないかと推測される。
 
後法成寺関白記:享禄4年3月28日後法成寺関白記:享禄4年3月28日
 天文元年(1532)4月26日に、「北条左京大夫、黄金十両紬三十段白鳥三樽一荷進上之、御方江太刀一腰助平 生絹三疋、同息新九郎太刀持一振千疋、北政所、左京太夫黄金五両紬紅 十段、姫君江左京太夫息女千疋、継孝院江 北条黄金紬紅十段、春芳軒へ白紬十段送之」と記述されている。これは、4月26日に、北条氏綱が近衛尚通へ黄金十両、紬30反、白鳥3羽、樽1荷を送った。奥方へ助平(すけひら)の太刀一腰、生絹3疋を送り、息子の新九郎からは北政所へ太刀一振りと銭千疋、氏綱は、姫君に黄金5両と紅紬10反、氏綱の娘から継孝院へ銭千疋、氏綱は黄金と紅紬10反、春芳軒へ白紬10反を送ったことを記している。これだけ膨大な贈物を近衛家一族に贈ったとなると、特別な出来事に関する贈物であったと想像される。この記述からも、氏綱が尚通の娘と婚姻を結んだと考えられるのである。
 氏綱が贈った黄金や銭、太刀や紬などは高価な贈り物であるが、その中に「白鳥」がある。享禄4年3月28日の日記に「白鳥一」、天文元年4月26日に「白鳥三」とある。白鳥とは、冬にシベリアから渡ってくる渡り鳥の白鳥のことだろう。なぜ婚礼の贈物に「白鳥」なのであろうか。白鳥の贈物の謎を探ってみたい。
2.鷹狩と白鳥

 鷹狩りは、平安時代以前から貴族・武士たちが楽しんだ武芸であった。江戸幕府を開いた徳川家康は、無類の鷹狩り好きで有名で、関東各地で鷹狩りを実施し、それは同時に幕府の軍事訓練の場でもあった。鷹狩りには高度な修練が必要であり、家康は武家伝統の「巻狩り」を引き継いで鷹狩りを実施していたのであろう。
 鷹狩り用の鷹は貴重な鳥であった。東北地方の大名たちは、捕獲した鷹を将軍家へ献上した。関東以北の各地に「鷹巣(たかのす)」「鷹取(たかとり)」「御巣鷹山(おすたかやま)(巣鷹は雛の意)」の名がある。各地の大名へも鷹が贈られ、鷹狩を楽しんだと云う。江戸に届いた鷹は、鷹飼育場で訓練された。そして、関東周辺の「鷹場」で鷹狩が実施されたのである。
 藤沢市に「鵠沼(くげぬま)」の地名がある。鵠沼海岸で有名である。鵠の字は、牛+口+鳥で構成され、「こう」、「くぐい」の意味である。これらは、白鳥の呼名で、オオハクチョウである。即ち、鵠沼とは、「白鳥の飛来する沼」の意味である。「ククイヌマ」から「クゲヌマ」へ変化したと考えられる。鵠沼は湿地帯で沼地が多く、江戸時代には多くの白鳥が飛来してきたと云う。明治時代以降、沼が埋め立てられてしまったが、今でも蓮池という小さな沼が残っている。蓮沼に行ってみると、カルガモが棲み付きカワセミの姿も見られた。家康は平塚にあった中原御殿から鳥類豊富な鵠沼に来て、鷹狩りをして白鳥を捕らえたのだろう。鷹狩りは、武家としての「武」の鍛錬の場であった。将軍の鷹が捉えた獲物は、「御拳之鳥(ごこぶしのとり)」と呼ばれ、御三家や大名に下賜された。下賜にあたっては、鳥の種類と相手を差別化することによって階級差を示した。最高級は鶴で、御三家のみに下賜され、他大名へは鴨などが下賜された。このように、鷹狩りは徳川幕府の重要な統治手段であったのである。また、公家の日記には鳥の贈答が多数記載されている。地方大名は京の公家たちへ度々諸鳥を贈って関係づくりをしていた。鳥類の贈呈は上下関係や友好関係を示しており、関係構築のために広く実施されていたと云えよう。
宮城県栗原市伊豆沼の白鳥宮城県栗原市伊豆沼の白鳥
3.食材としての白鳥

 白鳥は、高級食材として食されていたことが様々な文献に記載されている。ポルトガルの通辞であったロドリゲスが記した「日本教会史」には、「肉の一つは宴会の主要な料理をなす鶴のもの・・・。第二の汁は白鳥のもの・・・。日本で最も貴重な鶴と白鳥との二つの料理はこの種の宴会に荘厳さを加える。」と記されている。
 茶会の懐石料理にも白鳥は用いられていた。津田宗凡による「天王寺屋会記」の天正6年(1578)10月15日に、播州三木城の付城で羽柴秀吉筑前守(豊臣秀吉)による初めての茶会が開かれた。その春摘まれた茶を初めて点てる「口切」であった。釜は信長拝領の「乙前釜」、床には中国南宋時代の画家・牧谿(もっけい)筆の「月の繪」が掛けられていた。そして、本膳に「生白鳥汁」が出された。「白鳥いきたるをころし候で、汁二せられ候、此鳥ハ播州之日池へヲリ候」と記されているから、城のある播州の日池にいた生きた白鳥を捕らえて白鳥汁にしたようだ。また、寛永12年(1635)6月13日の奈良奉行筆頭家老辻七右衛門の茶会には、「膾(なます)、白酢、汁、白鳥、イワ竹・・」と記されている。
また、江戸時代に書かれた千利休の茶会の内容を記した「利休百会記」には、天正18(1590)年8月17日から翌年閏1月14日までの利休の茶会96会の様子が収められている。懐石料理の仕立ても記載されており、鳥食材は汁料理に頻出して、鶴1会、鴨2会、小鳥1会、雁10会出されている。白鳥は8会も出されている。「引きもの(五の膳)」として「白鳥の汁」が1会ある。
 江戸時代の料理宗家である四条家は、19世紀初め庖丁道を免許化して家職とした。四条家には「鵠庖丁」という白鳥の調理法が伝わっていた。永禄12年正月22日、宮中で天皇の御前で白鳥をさばいた。また、「鶴庖丁」は、将軍家から天皇へ献上された鶴を天皇や公家の前でさばいて料理する儀式であった。
 これらの資料から、江戸時代まで鶴や白鳥は本膳料理の高級食材としてよく食べられていたことが分かる。一方で、江戸時代にも乱獲により生息数が減少した鳥類の保護政策がとられていた。第5代将軍徳川綱吉は、「生類憐みの令」の御触れを出し、貞享4(1687)年食料として生きたままの魚・鳥・亀・鶴の飼育販売を禁止した。また、享保3(1718)年には、鳥類減少のために向こう3年間は鶴・白鳥・雁・鳧(かも)を贈答・食用とすることを禁止した。これは、江戸中期の鳥類の乱獲によって減少した鶴や白鳥の保護のためであった。
 明治時代の中期になると、日本人の食生活も西欧風に変化していった。その中で、明治36(1903)年6月から報知新聞の編集総理であり、小田原に住んだ村井弦斎が、家庭小説として著した「食道楽」は、大評判となった。まだ西洋料理が一般家庭で調理されることの少ない時代に、主人公の「お登和」が料理を作り、そのレシピを小説で紹介した。その内容は他愛のない恋愛小説であるが、西洋料理が大好評となって360章も連載し単行本も出版された。お登和の兄・中川が料理の蘊蓄を語り、お登和の恋人・大原満(大腹満:元祖メタボ)は肥満体で、お登和はバランスの良い食事を提供するのがテーマであった。「食育」の先駆けで、「食道楽」は正しい食事のあり方を啓蒙する役割もあったと云えるだろう。「食道楽」冬の巻の第341「鳥の食べ頃」に、『鳥でも獣でも何でも肉類には食べ頃という事があります。・・・鹿、猪、猿、白鳥、七面鳥は八日目以上を食べ頃としたものです。』と記され、第342「小鳥料理」にも、『雉、山鳥、兎、鷺、五位(ごい)鷺(さぎ)、鴛鴦(おしどり)、熊、猿、白鳥、七面鳥、鶏、犢(こうし)なぞは焼け過ぎた方が良いので生焼を非常に忌みます。』と記され、白鳥が食材として出てくる。「食道楽」からは、明治時代になっても白鳥は食べられていたことが分かる。
 しかし、鶴は江戸時代の乱獲がたたって、明治時代には生息数が激減していたため、食材としては既に一般的ではなかったのだろう。そのような状況下でも、三井の大番頭で茶人としても著名な益田鈍翁は、小田原の別邸「掃雲台」に鶴舎を造り、鶴を飼っていた。鈍翁は江戸時代の将軍家のように、毎年鶴を皇室に献上していた。鈍翁は自邸の鶴の羽で、羽箒の制作もしていた。この羽箒は大正11年(1922)森川如春へ贈られて茶会に使用されたそうだ。鈍翁茶会記には、向付(むこうづけ)に白鳥が出されていることが記録されている。
 江戸時代までの人々は、野生の生物を狩猟して普通に食していた。一方で、現代人はほぼ鶏肉しか食べないが、明治時代までは、鴨、雁、鶴、白鳥、鳩、鷺、雀、など多くの鳥料理があった。鳥は人家の近くに巣をつくり、人に馴つく存在である。食材としての鳥は、日本人にとって貴重な肉質タンパク源であった。しかし、乱獲で生息数が減少した結果、野生生物は希少生物となってしまった。そのため、大正7年(1918)に「鳥獣保護及狩猟ニ関スル法律」が定められて、野鳥の捕獲は原則禁止となり、指定種のみ許可を得て捕獲するようになった。その結果、都会はもとより地方においても次第に野鳥の肉を食べる風習も消えていき、現代人は養殖や飼育された牛・豚・鶏の肉食材を食べているのである。
 
4.氏綱の白鳥の贈物

 これまで述べてきたように、鷹狩りは武家の重要な武芸であり、軍事訓練であり、かつ遊びであった。武家だけでなく公家たちも鷹狩りを楽しんだ。徳川家康が鷹狩りを好んだ伝統を引き継いで、江戸幕府は毎年鶴を天皇へ献上した。将軍による鷹狩りの中で最も厳かな「鶴御成(鶴を捕らえる鷹狩り)」は、御三家と親藩のみへ下された貴重なものであった。そして、「料理道」を創作して、調理を形式化・権威付けしていった。料理とは「権威の象徴」であった。中でも「鶴」は、最高級の吉兆の鳥であった。天皇献上の鶴は、臣下は食べてはいけない決まりであった。臣下は天皇からの下賜品として受け取った時のみ食することができた。そうなると、武家が公家へ鶴を贈ることは憚(はばか)られられる。北条氏綱は近衛関白家へ鶴を贈ることを憚り、鶴に次いで貴重な食材であった「白鳥」を贈ったのであろう。
 地方大名たちは、京の公家へ敬意をもって贈答していた。それが自分の地方での権威付けであったからである。北条氏綱もまたそのような狙いがあったと思われるが、京の名家である伊勢家出身の氏綱にとって、都の公家との関係は自分のアイデンティティにとって重要なものであったと推定される。一方で、家計の苦しい公家にとって、白鳥は最高級品の贈物であった。鶴や白鳥は下位者が上位者へ贈る贈答品であり、氏綱は継室の実家である近衛関白家と云う上位者へ畏敬の念を添えて白鳥を贈ったのであろう。公家の京文化に対して、鷹狩りは武家の文化であった。その鷹狩りの獲物である「白鳥」の贈物は、武家から公家への最高の文化の贈与であったと云えるだろう。
 「後法成寺関白記」に記された北条氏綱からの贈物の「白鳥一」の謎を探ってきたが、白鳥が食物としての最高級食材であり、それが鷹狩りという武家文化の伝統による獲物であることが分かった。没落したとは云え、京の公家たちは煌びやかな京文化の伝承者たちである。伊勢氏から北条氏へ姓を替えて京名家の伊勢氏の姓を捨てることは、氏綱にとって苦渋の決断であったはずである。その思いの中で、公家の最高位にいる近衛家と縁結びできたことは、氏綱には何にもまして喜びに満ちた出来事であったであろう。氏綱は当時の武家が贈りうる最高級の白鳥の贈物を送って、地方の一大名となった北条家へ継室を送り出してくれた近衛尚通の厚意に応えたと云えるのではないだろうか。
記:広目子

2026/04/30 16:56 | 歴史

ページトップ