小田原駅西口を出て左方向へ道なりに進み、新幹線の鉄橋、青橋交差点を越えた先のT字路を右に行くと小田原競輪場が左に見えます。更に坂道を上って相洋高校に沿って行くと坂上にグラウンドがあります。坂の頂上は四叉路になっているので、左へ曲がります。すぐに左へ入る道があり、そこが国指定史跡小田原城跡の「三の丸外郭 新堀土塁」です。
「三の丸外郭 新堀土塁」は、起伏のある緑の公園です。主に市民が散歩で立ち寄る公園と云ったところでしょうか。三の丸外郭・新堀土塁は、北条氏が小田原城の総構の一翼を担うために構築した土塁です。守りのために築かれた外郭の一部ですから、当然敵の動きが手に取るように見える必要がありますから、土塁の上に登って南側を見下ろすと、そこには驚くほどの絶景が広がっています。西側には一夜城があった石垣山が見えます。一夜城がどこにあるか探すのも一興でしょう。南側には相模湾が見渡せます。山の緑に対比して、青々とした海原が広がって、遠く真鶴半島が見ることができます。視界の上半分は大空が広がり、心の中まで伸び伸びと広げてくれるようです。目を下側の市街地に移すと、東海道線と東海道新幹線の線路が通っています。
「三の丸外郭 新堀土塁」の敷地の一部は、旧皇族の閑院宮載仁(かんいんのみやことひと)親王の別邸のあった場所です。閑院宮別邸は明治39年(1906)に設けられ、広大な敷地に瀟洒な洋館を構えていました。載仁親王は昭和6~昭和15年まで陸軍参謀総長を務めていました。載仁親王の第2王子で宮家を継承した春仁王も別邸に住み、旧小田原中学(現小田原高校)で学び、陸軍少将として終戦を迎えました。その後、皇籍を離脱し、閑院春仁(かんいんはるひと)、閑院純仁(すみひと)と名乗り、亡くなる昭和63年(1988)まで小田原に居住していたそうです。なお、戦前にあった伏見宮家、有栖川宮家、桂宮家、閑院宮家の4つの宮家は、親王の身分を継承して「世襲親王家」と呼ばれたそうですが、桂宮家は明治期に、有栖川宮家は大正期に断絶。伏見宮家と閑院宮家は戦後に皇籍を離脱しました。
「三の丸外郭 新堀土塁」の敷地の大部分には、かつて「MRAアジアセンター」と云う建物が立っていました。私が会社に入ったとき、新入社員研修を受けたのがMRAアジアセンターでした。当時としては立派な研修施設で、ホテルのような宿泊室とレストラン、そして大小会議室と大広間がありました。一週間の宿泊研修ではグループに分かれて課題を議論し発表した懐かしい場所です。小田原にも立派な施設があるものだと驚いた記憶があります。その後、さまざまなイベントでMRAアジアセンターを利用させていただきました。
昭和37年(1962)に小田原市に設置されたMRAアジアセンターの「MRA」とは、「Moral Re-Armament」(モラル再武装)の頭文字です。これは、欧州における6年余に亘る戦争が終わった直後、MRAはフランク・ブックマン博士によって創立された、永続的な平和を構築するための国際的な道徳と精神を標榜する運動です。10月の開所式には、当時の池田勇人首相など政財界の有力者が出席したそうです。戦後日本の国際社会への復帰や、アジア諸国との和解など、民間外交の一翼を担うべく、「国際相互理解の増進」、「国際リーダー・人材の育成」、「公正かつ自由で創造的な民間公益活動の振興」等の事業の実施、支援、助成活動を行ってきました。
1970年代以降は活動の輝きを失っていたMRA運動は、2000年代に入って赤十字国際委員会の委員長を務めたコーネリオ・ソマルガ氏が指揮して、名称を「IC(イニシアティブス・オブ・チェンジ)」へ変更しました。創始者ブックマンの精神は残したま、「人は個人的な経験を共有することで変わることができ、またそこから社会を変えていくことができる」という原則の下、「私たちは、世界を変えようとは思っていない。少しずつ前進させようと模索しているだけだ」と云う精神を進めています。
開所後30年以上が過ぎた平成5年(1993)、建物の老朽化対策とリニューアル工事を実施し、名称も「アジアセンターODAWARA」に改めて4月に再開しました。しかし、建物の耐震構造上の問題点が発見されて、平成18年(2006)10月に建物解体を条件に小田原市が国指定の史跡公園として買収することになり、翌年10月にアジアセンターは閉館されました。