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2024年10月31日(木)

明治天皇の小田原行幸聖蹟

 11月3日は文化の日の祝日です。1946年(昭和21)11月3日に日本国憲法が公布されました。そして、1948年(昭和23)に「国民の祝日に関する法律(祝日法)で「自由と平和を愛し、文化をすすめる」ことを趣旨として、同日が「文化の日」とされたそうです。一方で、戦前の11月3日は、「明治節」と呼ばれ、明治天皇の誕生日を祝う祝日でした。戦争中は、明治節は国策に利用されて宮城遥拝や国旗掲揚などの祝賀儀式が求められました。
 明治天皇は、明治5年から明治18年まで、6回に亘り全国を行幸しました。「お上(おかみ)」と云えば将軍のことを指した江戸時代から明治時代となり、天皇が国家の中心となることを全国民に直接知らしめるためでした。国民にしてみれば、初めて知る天皇の姿であったと云えましょう。小田原へも行幸の途中に何度も宿泊しています。また、箱根で避暑を過ごされた後にも小田原へ寄られています。
(写真1)明治天皇小田原行在所跡(写真1)明治天皇小田原行在所跡
 本町三丁目のなりわい交流館から旧東海道を東に20mほど行った路地奥に、「明治天皇小田原行在所(あんざいしょ)阯」の石碑が建つ小公園があります(写真1)。この地は、旧本陣の清水金左衛門邸跡です。手前の石碑には「宮ノ前聖蹟由来」と書かれてあり、明治天皇が、明治元年10月8日、同年12月9日、明治2年3月25日、明治6年8月4日、同年8月28・29日と、明治の初期に5度も宿泊されたことが刻まれています。
(写真2)明治天皇本町行在所跡(写真2)明治天皇本町行在所跡
 小田原市本町の国道1号線交差点から箱根方面へ30mほど進んだところの道を海側へ入ったところに、「明治天皇本町行在所跡(旧片岡本陣跡)」として、「明治天皇聖蹟」碑が立っています(写真2)。明治11年(1878)11月7日、東海北陸両道巡幸の三島からの帰路で大雨となり、旧片岡本陣に宿泊されたことを記した石碑です。
(写真3)小田原城内の行在所碑と駐輦碑(写真3)小田原城内の行在所碑と駐輦碑
 小田原城の学橋西詰に行在所碑と駐輦(ちゅうれん)碑があります(写真3)。「輦」は天子の乗る車のことで、「駐輦」とは行幸の途中で車をとめることです。当時、城内は廃藩置県後で足柄県庁がありました。明治6年(1873)8月28日、明治天皇と皇后は、箱根宮之下温泉にて避暑を過ごされ、箱根からの還幸の途中で明治天皇は小田原城内を御遊ばれました。この日の晩は、旧本陣清水金左衛門宅へ宿泊されました。
 ところで、小田原の海岸である御幸の浜(みゆきのはま)は、インスタ映えする「海への扉」がある人気スポットとなっています。この浜がなぜ「御幸の浜」と呼ばれているのか、ご存じでしょうか。それは1873年(明治6)8月4日に、明治天皇と皇后が小田原海岸で漁師の地曳網をご覧になり、それを由来として「御幸の浜」と呼ばれるようになったそうです。御幸の浜の西湘バイパス手前に江戸時代の台場跡があり、そこに「明治天皇臨幸記念碑」があります。しかし、残念ながら現在は横倒しになっていて、碑表面が下になっているので碑文を見ることはできません。
 明治維新の直後に全国行幸を始められた明治5年、明治天皇はまだ21歳の若さでした。若き天皇が34歳になるまでの13年間に全国を巡り、東海道途中にある小田原には何度も宿泊されました。小田原に数多く遺る明治天皇聖蹟を巡れば、若き明治天皇が日本をどのように感じられて過ごされたのか、明治維新とは何であったのか、を改めて考える機会となるのではないでしょうか。
 
記:広目子

2024/10/31 11:16 | 歴史

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