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2024年07月10日(水)

「甘柑荘」 ―『虎に翼』の別荘―

 今年の4月から始まったNHK連続テレビ小説『虎に翼』の主人公のモデルは、日本初の女性弁護士となった三淵嘉子(みぶちよしこ)です。三淵嘉子は、戦後に女性として初めて裁判所長となりました。その三淵嘉子とゆかりのある邸宅が小田原市にあることが、朝ドラによって一躍知られるところとなりました。今回は、その三淵嘉子ゆかりの「三淵邸・甘柑荘(かんかんそう)」をご案内しましょう。
1.甘柑荘へ
(写真1)甘柑荘への道(右側:甘柑荘)(写真1)甘柑荘への道(右側:甘柑荘)
 小田原市の板橋エリアには、国道一号の北側を沿うように、東海道の旧道が通っています。その一帯には、古稀庵(こきあん:山縣有朋の別邸)、皆春荘(かいしゅんそう:清浦奎吾の別邸)、老欅荘(ろうきょそう:松永耳庵の本宅)など歴史的建造物が遺されています。その旧道に沿ってさらに奥には細い道路があり、途中の横道を入ると「甘柑荘」があります。横道の正面には、お寺の門が見えます(写真1)。三淵家の墓がある「霊寿院」です。その手前の右側が甘柑荘です。
(写真2)甘柑荘の門(写真2)甘柑荘の門
 甘柑荘は、金曜日と日曜日の午前11時から午後3時までしか開館していません。平日の金曜日に訪ねたのですが、開門前には門前にすでに10人もの見学者の行列ができていました(写真2)。11時に開門されて、甘柑荘の玄関に入ると受付があります。入館料はなく、一人につき500円以上の建物・庭の維持寄付金を納めます。邸内外の写真撮影はOKです。
 甘柑荘は、戦後に初代最高裁判所長官となった三淵忠彦(みぶちただひこ)が、昭和初期に建てた別荘です。数寄屋風造りのこの家で、忠彦は晩年を過ごしました。忠彦は裁判官や大学教授を経て、60歳で隠居しました。戦後、片山哲内閣の指名を受けて、67歳で初代長官となりました。
 「虎に翼」の主人公のモデルである三淵嘉子は、昭和13年(1938)に高等試験司法科試験に合格して、日本初の女性弁護士となりました。戦中に夫、弟、両親を失い、戦後に司法省民事部で民法改正の作業を担った経緯は、NHKの朝ドラのとおりです。
 昭和24年(1949)に東京地方裁判所判事補、昭和27年(1952)に名古屋地方裁判所で、司法史上初の女性判事となりました。そして、昭和31年(1956)に忠彦の長男で裁判官の三淵乾太郎と再婚します。そして、昭和47年(1972)に新潟家庭裁判所の初の女性裁判所長となりました。浦和と横浜の家庭裁判所長を務めて、昭和54年(1979)に定年退官し、再び弁護士として活躍しました。5年後の昭和59年(1984)に69歳で亡くなりました。甘柑荘は、三淵家の家族が集う場所となっていました。嘉子は南側の庭に、梅、みかん、夏みかんなどの果実の樹を植えました。それが甘柑荘の名前の由来です。
2.甘柑荘の建築的特徴
 甘柑荘を設計したのは「佐藤秀三」という建築家です。和洋折衷の木造建築を数多く設計・施工しました。旧住友家那須別邸、画家の向井潤吉邸、日光プリンスホテルなどを手掛けています。施主の三淵忠彦は、「佐藤さんにお願いするとき、玄関のない、床の間のない、そして一切の装飾のない家をと注文した。佐藤さんは、その通りに建ててくれた。」と書き残しています。
(写真3)甘柑荘の家屋(写真3)甘柑荘の家屋
 甘柑荘は、「この家は簡単ではあるが清楚である」と評されています。黒瓦の平屋で、外観も数寄屋風建築ですから簡素な印象です(写真3)。外観で唯一目を引くのが、正面右側の「招き屋根」です。招き屋根とは、切妻屋根の片面が短く片面が長い形式の屋根のことです。短い方の屋根の下には、「方杖(ほうづえ)」という屋根と壁を斜めに支える補強材が見えます(写真4)。この招き屋根で、平素な建物にダイナミックな印象を与えています。
(写真4)招き屋根(写真4)招き屋根
 「玄関のない」と設計された入口は、どうなっているでしょうか。引戸の玄関ドアを開けると土間になっていて、輪切りされた杉丸太が埋め込まれています。確かに玄関らしからぬ古民家風の土間です。年輪がランダムに並ぶ丸い断面は抽象絵画のような雰囲気を醸し出して、家人と客人を迎い入れます。
 また、「床の間のない」とされた居間は、どのように設計されたのでしょうか。玄関脇の八畳の居間には、床の間らしきコーナーがあります。
(写真5)床の間風(写真5)床の間風
 床の間は、和室に設けられた「床を持つ部分」です。正式な床の間では、その両側に付書院(つけしょいん)と違い棚(ちがいだな)が設けられています。床の間は、床柱と床框(とこがまち)を設けた畳より一段高い床になっています。一方、簡易な床の間として「踏込床」(ふみこみどこ)があり、床部分が高くなっていなくて、畳と同じ高さに床があります。甘柑荘の居間にある床の間は、踏込床のように見えます(写真5)。ところが、床の間では床柱を手前の角に設けるのが普通ですが、甘柑荘では皮付きの白樺の床柱を奥の壁に半分埋め込んであります。更に、床の間の上部には手前に垂れ壁が設けられて、床の間の天井部は正面から直接見えずに暗がりになっていますが、甘柑荘では垂れ壁がありません。このように、居間の床の間風のコーナーは、床の間のように額を掛けたり、花を生けたりする空間として利用できますが、正式な床の間ではありません。ある意味では、非常に「開放的な近代的な床の間」と云えるかもしれません。
(写真6)茶室(写真6)茶室
 そして、「装飾のない」家という意味では、もとより数寄屋風に造られた建築ですから、無駄な装飾はありません。それがよく表れているのが、居間の奥にある五畳半の茶室です(写真6)。中央の畳に炉が切ってあります。床の間はありませんが、丸太の床柱風柱で支えられた二段の戸棚が付いています。下は板戸、上は襖の造りになって、簡素な部屋に変化が生まれています。外に面した廊下側は全面障子で、明るい茶室になっています。このように、煌びやかで派手な装飾は一切なく、随所に自然素材を活かしていている簡素な造りです。それが空間として、清楚な印象を生み出しているように感じます。
3.本棚に並ぶ書籍
 甘柑荘の居間の裏側は廊下になっています。廊下の突き当りの左側は、括り付けの本棚があります。ガラス戸なので中に並ぶ書籍を見ることができます。本棚に並ぶ書籍を見ると、その人の性格が分かると云いますが、甘柑荘に住んだ三淵家の人々の心の内を垣間見れるように思われました。本棚には、法律書はもとより、春秋左氏傳や二大漢籍国字解などの漢籍、茶道の全集、水野廣徳(軍事評論家)や相楽總三(尊王攘夷派志士)などの人物伝、薄田泣菫の随筆「独楽園」、「君たちはどう生きるか」などの日本少国民文庫シリーズ、キリスト教関連の本などが、多彩に富んだ書籍が並んでいました(写真7)。
(写真7)キリスト教関係の書籍(写真7)キリスト教関係の書籍
 三淵忠彦の後妻・静はキリスト教徒であったから、その関係でキリスト教の蔵書があるのかもしれない。忠彦は、昭和25年(1950)3月2日に最高裁判所長官を定年退官し、その翌日に上智大学のホイヴェルス神父の洗礼を受けてカトリックに入信しました。洗礼時には既に病床にあり、7月14日に亡くなった。忠彦は、洗礼を受けた後、「僕が浄土、君が天国と別れ別れにならずに、これで二人とも天国でまた会えるね」と静に言ったそうです。
 甘柑荘へは、三淵嘉子もたびたび訪れて、家族と過ごしたそうです。「簡単ではあるが清楚である」この家は、嘉子の感性に響いて気に入っていたのではないでしょうか。

記:広目子

2024/07/10 16:52 | 歴史

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