無形民俗文化財・相模人形芝居下中座
相模人形芝居下中座(国指定 昭和55年1月28日)
【所在】小竹
【保存会名】下中座
【概説】
相模人形芝居は、大阪の文楽と同じように三人遣い(さんにんづかい)という様式で、一つの人形を三人の遣手が操作する人形芝居で、江戸系に属し淡路人形芝居が主流です。
三人遣いの発祥は、享保19年(1734)大阪・竹本座で始められたとされますが、江戸の孫四郎芝居が、それより早く17世紀末に始めたといわれています。
相模人形芝居の特徴は、文楽の人形に比べてカシラがやや小ぶりで、首を動かす構造が異なるほか、通称「鉄砲差し(てっぽうざし)」と呼ばれる繰法を持っています。
「鉄砲差し」とは、芝居の見せ場でポーズを取る時、観客に向かって人形を前に傾ける構えを言いますが、その時の主遣い(おもづかい:人形のカシラと右手を操る人)の構えが、鉄砲を構えた姿に似ていることからそう呼ばれます。
下中座は、江戸時代から「小竹の人形」として知られた人形座で、発祥についての文献はありませんが、言い伝えによると、およそ今から250〜260年、関西地方から人形遣いの一行が、江戸を目指して旅興行の途中、この小竹村に来たところ村人と意気投合して、その座頭格の男が村に長い間滞在し、名主小沢八郎右衛門の援助を得て、その技能を村の青年に伝えたのが始まりと言われています。その後、人形のカシラや衣装なども徐々に整えられ、一時は近隣に好評を博しましたが、幕府の天保の改革の諸芸禁止により中絶してしまいました。しかし、幕府の目を逃れて、横穴古墳の中で稽古をしたとも伝えられています。
カシラの大部分は、宝暦〜天明(1751〜1789)の製作とみられ、その彫りは素朴です。現在、カシラは55個(うち鉄砲差しカシラ19個)あり、相模人形中興の祖といわれる西川伊左衛門の作品もあります。植毛のカシラが多いことも特徴です。
下中座の初期の師匠は不明ですが、明治26年頃に吉田金花、駒十郎父子が来村しています。金花は静岡生まれで、明治維新後に東海道筋の人形元締めの一人となった人です。村に来ると東際寺に滞在し、昼間はカシラの塗り替えをし、夜は稽古をつけたと言われ、40〜80日も居ることが2〜3年続いたといいます。後に吉田一京・吉田冠三が来村したとも言われています。
明治末期になると、相模人形中興の祖と言われる西川伊左衛門が当地に来ました。彼は江戸系の繰法を伝えた最後の人形遣いで、下中座のほか厚木市の長谷座・林座、平塚市の前鳥座などを回って指導しました。
国の指定にあたっては、下中座・長谷座・林座の三座が、相模人形芝居連合会を結成し、国の無形民俗文化財として同時指定を受けました。現在は、これら三座に加えて、県指定の平塚市の前鳥座、南足柄市の足柄座が加わって年に一度合同公演を行っています。
平成31年(2019)3月に開催された合同公演「第46回相模人形芝居大会」の様子を小田原市文化レポーターがレポートしています。ぜひ、ご一読ください。