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2019年04月03日(水)

第46回 相模人形芝居大会

 神奈川県には、「相模人形芝居」と呼ばれる、人形を操る芝居を伝える団体があります。これらの人形芝居は、江戸時代から明治時代にかけて15座もあったそうです。現在、この伝統芸能を継承しているのが、厚木市の「林座」と「長谷座」、小田原市の「下中座」、平塚市の「前鳥座」、南足柄市の「足柄座」の五座です。1年に1度初春の頃に、相模人形芝居連合会の主催で「相模人形芝居大会」が開催されます。神奈川県内を持ち回りで開催され、第46回を数える平成30年度は、3月2日小田原市で開催されました。小田原市民会館大ホールで上演された「第46回 相模人形芝居大会」をレポートします。
会場の入り口でお姫様とハイタッチ会場の入り口でお姫様とハイタッチ
「相模人形芝居大会」の開場

 相模人形芝居大会は大変人気が高く、往復はがきによる事前申し込みが必要で、抽選が行われます。今回は、抽選の結果数百人が観ることができなかったそうです。ご近所の方は、人形芝居の追っかけをしていると仰っていたので、熱烈なファンに支えられているといえるでしょう。

 12時の開場前には、長い行列ができていました。入口では、人形のお姫様が出迎えてくれて、お客様とハイタッチをしていました。
満席の市民会館大ホール満席の市民会館大ホール
 市民会館大ホールは満席で、開演を待つ人々の熱気に満ちていました。観客は、やはり高齢者が目立ちますが、子どもたちや若いご夫婦なども多く参加されていました。幅広い層から期待されている伝統芸能なのだと感じました。伝統芸能というと「難しくて見ても分からない」と思われがちです。しかし、考えてみれば、もともと人形芝居は江戸時代から庶民の娯楽でしたから、難しく考えずに、物語に織り込まれた人の情感を、いかにリアルに人形で表現しているか、を楽しめばよいのではないでしょうか。
林座長の開演前の挨拶林座長の開演前の挨拶
 人形芝居は、「人形遣い」という黒子(くろこ)の3人が人形を操りながら物語を演じていきますが、人形遣いには高度な技術が求められます。観ている人に、いつの間にか人形と感じさせなくなるような技量が求められます。相模人形芝居の各人形座はプロではありません。素人であっても、日頃の厳しい鍛錬によって「人形が人間以上に人間らしく」見えるように演じる努力をされています。

 最初に、人形遣いの装束で登場した下中座の林美禰子座長の挨拶と小田原市長の挨拶がありました。それでは、各座の上演演目を簡単にご紹介しましょう。
娘・お鶴を思いやる母・お弓娘・お鶴を思いやる母・お弓
「相模人形芝居大会」の演目

 最初の演目は、平塚市四之宮地区の「前鳥座(さきとりざ)」による「傾城阿波の鳴門(けいせいあわのなると) 巡礼歌(じゅんれいうた)の段」です。阿波徳島城主の玉木家に伝わる宝刀が盗まれてしまいます。家老の家来・十郎兵衛とお弓夫婦は大阪で盗賊の仲間に入って刀を探します。お弓が留守番をしていると巡礼の娘がやって来きます。阿波から来たという娘の身上話を聞くと、お弓は故郷に残してきた娘のお鶴だと分かります。「ととさんの名は十郎兵衛、かかさんはお弓と申します」のお鶴の台詞は有名です。盗賊の罪が娘に及ぶことを恐れたお弓は、娘を追い返して泣き崩れます。しかし、あきらめきれずに思い直したお弓は、お鶴の後を追いかけます。この物語の背景は、藩主玉木家の若殿が高尾という傾城に溺れていることをよいことに、悪臣がお家乗っ取りを図る企てです。ですから、題に「傾城」が入っています。一家の不幸の遠因が若殿のご乱行があると知っている江戸時代の観客たちは、理不尽な世の中で繰り広げられる悲劇に、より一層涙したことでしょう。
沢市は、お里の夜ごとの行動を疑う沢市は、お里の夜ごとの行動を疑う
 二番目は、厚木市長谷地区の「長谷座(はせざ)」による「壺坂観音霊験記(つぼさかかんのんれいげんき) 沢市内(さわいちうち)の段」でした。沢市とお里は仲の良い夫婦でした。沢市は目が不自由で、それが治るようにと毎晩お里は壷坂観音へお参りしていました。お里の行動を疑った沢市は問い詰めますが、真の事情を知った沢市はお里に侘び、お里と一緒に壺坂観音へお参りに行くのです。
眼があいた沢市は、喜んで舞い踊る眼があいた沢市は、喜んで舞い踊る
 三番目は、厚木市林地区の「林座(はやしざ)」による「「壺坂観音霊験記 山の段」でした。「沢市内の段」に続く物語です。眼が見えない沢市は、自分がいてはお里に迷惑と、滝壺へ身を投げてしまいます。それを知ったお里も後を追って崖から身を投げてしまうのです。二人の夫婦愛を聞き届けた観音は、二人を救います。観音出現の場面では舞台が真っ暗になり、光り輝く観音が現れます。観音の霊験で沢市の眼も開くのです。人形が身を投げる場面では、実際に高いところから落とします。身投げのように見せるのも技術がいることでしょう。
千松を抱いて悲しむ政岡千松を抱いて悲しむ政岡
 四番目は、南足柄市班目(まだらめ)地区の「足柄座」による「伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ) 政岡忠義の段」でした。題の「伽羅」は香木の銘木・キャラです。「先代」は「仙台」に掛けています。この物語は、江戸前期に実際に起こった「伊達騒動」を題材にしています。ですから、「仙台」なのです。三代藩主・伊達綱宗は遊蕩に耽り、伽羅で作った履物を履いて吉原へ通ったそうです。また「萩」の名は、八段目で、先君・秀衡が大事にした「萩」がお家の陰謀を知らせたことから、「先代萩」と名付けたそうです。この物語では、若君の暗殺を狙う逆臣が毒入り菓子を差し出すと、政岡の子・千松が駆け込んで菓子を食べてしまいます。千松は苦しみながら亡くなってしまいます。母の政岡は顔色一つ変えずに若君を守ります。一人になった政岡は、千松の亡骸を抱きしめて涙するのです。親子の情と忠義の狭間に置かれた政岡の悲しみを描いた名作です。
太夫・黒桝公江さん、三味線・竹本土佐子さん太夫・黒桝公江さん、三味線・竹本土佐子さん
艶容女舞衣(はですがた おんな まいぎぬ) 酒屋の段

 最後に登場したのが、小田原市小竹(おだけ)地区の「下中座」による「艶容女舞衣 酒屋の段」でした。物語を語る大夫(たゆう)は、黒栁公江さん、三味線は竹本土佐子さんでした。大阪の酒屋「茜屋」の息子・半七はお園という妻がありながら、女舞芸人の三勝と恋仲になりお通という子どもまでもうけて、家に帰ることはなかったのです。怒ったお園の父・宗岸は、お園を実家へ連れ帰ってしまいます。
右から茜屋主人・半兵衛、母・お幸、父・宗岸、お園右から茜屋主人・半兵衛、母・お幸、父・宗岸、お園
 しかし、お園は毎日泣き暮らしているので、不憫に思った宗岸は、お園を連れて茜屋へ詫びを入れに来ます。ところが、頭を下げる2人に、主人の半兵衛は息子は勘当したのだから嫁は要らないと、すげなく突き放します。すると、宗岸は半兵衛に縄が巻かれていることを指摘します。人殺しの罪を犯した息子の半七の命を少しでも延ばしたいという親心から罪を被ろうとしたのでした。そして、それは、お園が若後家となってしまうのを不憫に思った半兵衛の思いやりでもあったのです。
頭を下げる父・宗岸とお園頭を下げる父・宗岸とお園
 三人が今後の事を話そうと奥へ引っ込むと、一人残ったお園は、「今頃は半七さん。どこでどうしてござろうぞ」、「去年の夏の患いにいっそ死んでしもうたらこうした難儀はせぬものを」と述べて苦しい胸の内を見せます。「お園のクドキ」と呼ばれる有名なセリフです。一人になったお園をどう演じるか、人形遣いの腕の見せ所です。
縄を打たれていた半兵衛縄を打たれていた半兵衛
 帰ることのない夫を、それでも店先で一人待ち焦がれるお園の演技が見所です。正座して、小首をかしげ、少し前かがみになったお園のしぐさは、可憐な娘の切ない想いを表しています。また、立ち姿では、膝をちょっと折って、袖を持った手を重ね合わせるしぐさは、とても若い娘とは思えず、女性の色気さえ感じるような人形遣いでした。
座ったお園のしぐさ座ったお園のしぐさ
 更に、出色であったのが、立ち上がったお園が、身体を反り返しながら、浮世絵の「見返り美人」のようなしぐさをする姿でした。「お園のくどき」は、せりふだけでなく、お園のしぐさをどう演出するか、で全く雰囲気が変わってしまうだろうと、思われました。
お園の立ち姿お園の立ち姿
 五座の人形芝居を観て、どの座とも、それぞれがとても素人の人形遣いとは思えない人形芝居に出来上がっていました。中でも、下中座は、五座の中で一番の実力を備えていると感じました。お園の人形遣いに抜きんでた技量が伝わってきたからでしょう。

 休憩時間中や終演後のホワイエでは、人形との交流が用意されていました。間近で見る人形の精巧な造りと豪華な衣装は、撮影の格好の被写体となっていました。
振り返るお園の立ち姿振り返るお園の立ち姿
人形芝居の世界

 人形芝居には、道ならぬ男女の恋や、親子や夫婦などの「情」を描いた物語が数多くあります。「世話物」というジャンルは、巷の人々の日常が背景です。夫婦の思いやり、商売の失敗や遊郭の遊女との契り、親子の葛藤や恩に報いる犠牲などです。また、主君への忠義も重要なテーマでした。自分たちの想いとは逆に、ままならない世界へと落ち込んでいった末に、悲劇的結末となってしまう物語に、江戸時代の観客たちは自分の境遇なども重ね合わせて観ていたのかもしれません。
子どもが人形の相手役をします子どもが人形の相手役をします
 かつて、日本各地に人形芝居の座が数多くありました。村の人形芝居は村人自身で人形や舞台を準備し、人形操りや語り・三味線の稽古を続けて村人たちの前で上演しました。人形芝居は、村人たち皆で作り上げ楽しんだ身近な娯楽だったのです。下中座の歴史を紐解いて見ても、「若者宿」が継承を担っていました。人形芝居が表す人の情に共感することで、地域の人々はその想いを共有化してきたのでしょう。人形芝居を上演することが、村の人々に共同体意識の醸成と結束を生み出していたのかもしれません。
 一方で、人形芝居は人々に歴史物語を教えるだけでなく、その時代の心中事件など噂になった出来事を伝えるニュース的役割もあったのではないでしょうか。芝居を観る人々は、心中に至る主人公の情に心寄せたのでしょう。
 人形遣いの動きによって、人形に命が吹き込まれて人形が感情を持つようになります。人形だからこそ、人間の感情をより単刀直入なリアルさをもって、観る人へ伝えることができるのかもしれません。人形芝居は、時代を超えても変わることのない人間の情を今に伝えています。現代であっても、人々の心や情は、江戸時代とそう変わるものではないでしょう。そうであるならば、相模人形芝居が、現代人の「情」をも表現する演出へと昇華していく可能性もあるのではないかと感じました。
(深野 彰 記)
 なお、下中座についてはコチラをご覧ください。

2019/04/03 13:24 | 伝統芸能

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