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2020年11月13日(金)

◆市民会館閉館記念シリーズ(三)◆

(写14a)市民会館本館(市政30周年記念号より)(写14a)市民会館本館(市政30周年記念号より)市民会館大ホールの建築デザインから見た魅力 ③

6.市民会館本館の建設の影響

大ホール開館の3年後、昭和40年(1965年)5月8日に大ホール正面入口の東側に隣接して市民会館・本館が完成した(写真14a)。

(写15)本館と大ホールを結ぶ渡り廊下(写15)本館と大ホールを結ぶ渡り廊下その結果、建築デザインの要である大ホールの建物正面が見えなくなってしまった。更に、本館と渡り廊下で結ばれたので、開放感ある1階ホワイエは暗がりとなり、2階ロビーの明るい雰囲気も消えてしまった(写真15)。

本館の建設着工は、大ホール開館の2年後の昭和39年(1964)5月であった。ということは、建設工事期間にはもう隠れてしまったはずだから、大ホールの正面が1号線側から見えていたのは、せいぜい1年半くらいしかなかったことになる。恐らく、大ホールの正面デザインは、市民に記憶される間もなかったであろう。昭和20・30年代の建築思想の特徴がよく表現された大ホールの建築デザインの魅力は、あっという間に消え去ってしまったのである。50年の時を経た現在では、建物内部の壁画も床も傷だらけとなり、洒落た備品もない殺風景この上ない雰囲気となってしまっているのが、誠に残念なことである。

公共建築は「街の顔」となる。遠望されるランドマークと呼ばれる建物は、街の中心部を指し示している。小田原市では小田原城がランドマークである。そして、かつては、市民会館もまた小田原のランドマークであっただろう。

そこには、最初に建設された大ホールをデザインした設計者の、外観と内装のデザインに込めた想いがあったはずである。それがわずか1年で失われてしまった事実を知れば、大ホールと本館の配置も含めたサイトレイアウト設計(敷地全体設計)が十分練られずに進められたのではないか?と、考えたくなるのは自然だろう。

(写16)大ホールの断面図・舞台は地下1階にある(写16)大ホールの断面図・舞台は地下1階にある大ホールの建設計画では、小田原城の景観を損ねるとして高さが抑える低層建築案が採用されたという。そのため舞台は地下1階となり、舞台の右袖と舞台裏にスペースが取れなくなった(写真16)。

(写17)大ホール舞台右袖奥の搬入用リフト(右客席)(写17)大ホール舞台右袖奥の搬入用リフト(右客席)これは、大掛かりな舞台装置の設置や、右袖を有効に使おうとする舞台演出の大きな制約となった。また、舞台装置の搬入は、舞台右側上部の搬入口からリフトを使って少しずつ舞台へ下ろすしか他に方法がなかった(写真17)。そして、1970年代にニューミュージックの全国ツアーが全盛の時代になると、舞台装置はトレーラーで装置一式を持ち運ぶ方式へと変化したが、大ホールはその方式に対応できなかった。そのため、小田原市民会館大ホールは全国ツアーの開催対象とはならなくなってしまったのである。開館当時は盛んに様々な人気歌手や演奏会などの公演が開催された大ホールが近年ではその面影もなくなった理由の背景には、その建築設計上の制約があったのである。ところが、3年後に完成した市民会館本館は地上6階建てで、当時では高層ビルであった。この本館設計案からは、2年間で小田原城への景観に対する考え方が変わったとしか考えられない。そうでなければ、大ホールの舞台をわざわざ地下にせず、大ホールの建物をもう一階高くすればよかったからである。これが、私が大ホール建設設計時には大ホールと本館を併せた市民会館全体サイトレイアウトは構想されていなかった、と考える根拠である。同じ市民会館の名称ではあるが、大ホールと本館は全く異なる設計思想でデザインされた建物なのではないかと考えざるを得ないのである。

(写18)大ホール外観のパース(正面玄関前は広場)(写18)大ホール外観のパース(正面玄関前は広場)大ホールが国道1号線側に建ち、その裏手(小田原城側)に本館が配置されるような逆のサイトレイアウトであれば、大ホールのル・コルビュジエ的建築デザインの魅力は今もまだ光り輝いていたかもしれない。しかし、設計者は一号線際に大ホールを建てようなどとは、当初から考えてはいなかったのではないか。前川國男の建築デザインでは、建物へのアプローチを大切にした。県立音楽堂の前も大きな広場となっている。大ホール設計者は、大ホール正面玄関前を広々とした広場として整備し、大ホールへ入る観客たちが、公演を前に心躍るひと時を過ごすトキメキの場として設計していたのではないか。そして、そこは街を散策する市民たちの憩いの場ともなるように考えていたことだろう。それは、残された大ホール単体の外観デザインパースからも想像できる(写真18)。恐らく、大ホール設計者は、開館直後に本館が大ホールの前に立てられて、建物正面の景観を遮ってしまうなどとは想像もしなかったのではないだろうか。

都市のランドマークとなるような公共建築の設計は、建物本体の外観設計のみならず、その外観デザインの特徴を際立たせるように、周囲景観との調和設計が極めて重要であると思う。それを忘れ、無視して周囲を開発してしまうとどうなるか、いずれ解体されてしまう小田原市民会館の運命に表れている。一方で、優れたデザイン性を保ち続けている神奈川県立音楽堂は、隣接する県立図書館とともに、これからも永く使い続けられて日本の名建築遺産として残されていくことだろう。同じデザイン思想で設計された二つのホールの運命は、半世紀を経て明暗両極に分かれてしまうのである。

小田原市民会館大ホールの建設当時は、外観デザインや色鮮やかな壁画など外観も内装も、最先端デザインが輝く建物であった。そして、大ホールや本館の各階の壁面は、地元作家の絵画の名品で飾られてきた。小田原市民会館は、まさしく外も内もアートの世界であった。しかし、その豊かなアートの世界は、いつの間にか色褪せてしまった。それは何故なのだろうか。全てのモノは手入れをしなければ、汚れ、傷つき、退色する。時代と共に求められる機能性は変化し、新しい機能を追加・改修されなければ年と共に機能は衰えていく。それでも、建物やモノは手入れをすれば、半永久的に使用することは可能である。ただ、そこでは常に巨額な改修費用負担の問題が発生する。その負担を嫌ってしまうと、衰えは加速してしまうのである。

そしてまた、現代という速い流れに乗り遅れないために、現状持続の道よりも破壊と再生の道が選ばれてしまうことは、致し方がないことなのかもしれない。それをどう客観的に評価するかは、市の文化行政にとって極めて重要なファクターであると思う。

建築では、建築家が建物へどのような想いを織り込みながら設計していったのかを探ることで、建築デザインに込められた原点的魅力を知ることができるだろう。街が持つ魅力とは、その土地の風土の中で積み重ねられた歴史の中にある。街に残る古建築の魅力は、街を構成する要素として存在してきたことにある。その時代時代で発想されてきた「想い」こそが、残すべき街の遺産なのである。その「想い」こそが、建築やモノに具象化されているのだ。市民会館に密やかに残る建築とアートの世界の発掘を通して、改めて市民会館を建設した当時の人々の文化振興への願望、そして、市民会館で創られてきた思い出を知ることができる。いずれ新陳代謝されて生れる新しい「三の丸ホール」も、アートな市民会館の歴史を踏まえた新しい歴史を積み重ねて欲しいものだと切に願う。

深野 彰 記
 

2020/11/13 15:31 | コミュニティ


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