(写15)本館と大ホールを結ぶ渡り廊下その結果、建築デザインの要である大ホールの建物正面が見えなくなってしまった。更に、本館と渡り廊下で結ばれたので、開放感ある1階ホワイエは暗がりとなり、2階ロビーの明るい雰囲気も消えてしまった(写真15)。
本館の建設着工は、大ホール開館の2年後の昭和39年(1964)5月であった。ということは、建設工事期間にはもう隠れてしまったはずだから、大ホールの正面が1号線側から見えていたのは、せいぜい1年半くらいしかなかったことになる。恐らく、大ホールの正面デザインは、市民に記憶される間もなかったであろう。昭和20・30年代の建築思想の特徴がよく表現された大ホールの建築デザインの魅力は、あっという間に消え去ってしまったのである。50年の時を経た現在では、建物内部の壁画も床も傷だらけとなり、洒落た備品もない殺風景この上ない雰囲気となってしまっているのが、誠に残念なことである。
公共建築は「街の顔」となる。遠望されるランドマークと呼ばれる建物は、街の中心部を指し示している。小田原市では小田原城がランドマークである。そして、かつては、市民会館もまた小田原のランドマークであっただろう。
そこには、最初に建設された大ホールをデザインした設計者の、外観と内装のデザインに込めた想いがあったはずである。それがわずか1年で失われてしまった事実を知れば、大ホールと本館の配置も含めたサイトレイアウト設計(敷地全体設計)が十分練られずに進められたのではないか?と、考えたくなるのは自然だろう。