つまり、早雲は、応仁の乱が始まる直前から、そのまっただ中にいたわけである
応仁元年(1467年)正月、応仁の乱が勃発(ぼっぱつ)した。義視は東軍細川勝元に擁立される形であったが、一時期、身の置き所がなく、伊勢(三重県)に落ち行くということがあった。近侍である早雲も伊勢に下っている。
ところが、翌二年、状況が好転して、義視が京に迎えられたとき、早雲は京には戻らず、そのまま伊勢に留まったのである。要するに浪人の身になってしまったわけで、早雲素浪人説との接点がみられる。では、その後、早雲はどうしたのであろうか。何と、駿河(静岡県)ヘ下っているのである。前年、応仁の乱が始まったとき、駿河守護今川義忠が兵を率いて上洛(じょうらく)し、東軍に加わり、滞陣中、早雲の妹北川殿を見初めて結婚していた。
北川殿が、兄早雲の浪人を知って駿河に呼んだのか、あるいは、「駿河にきて夫義忠の補佐をしてほしい」という要請があったので、義視について京にもどらなかったのか、早雲が駿河に下ったのは、そのいずれかであろう。
駿河に下った早雲は、しばらくの間、目立った活躍をしていない。皮肉なことに、妹の夫である今川義忠の不慮の死によって、にわかに早雲の出番がまわってきたのである。
文明八年(1476年)四月、遠江(静岡県)に攻め込んでいった義忠が戦死してしまった。義忠と北川殿との間に生まれた龍王丸(たつおうまる)はまだ六歳と幼く、今川家において家督争いが生まれてしまったのである。
このとき、家督争いを収めたのが早雲であった。「龍王丸が成人するまで」という約束で家督代行の座についた小鹿(おしか)新五郎範満(のりみつ)がなかなか龍王丸に家督をもどさないので、長享元年(1487年)十一月、早雲は駿府今川館に小鹿新五郎範満を急襲し、龍王丸に家督をとりもどした。そして龍王丸は元服して氏親を名乗った。氏親は、戦功の第一の功労者であり、伯父でもある早雲に恩賞として興国寺城を与えた。これは早雲自身の希望だったかもしれない。早雲は今川領国の東の守りを任されたのである。