北條氏直画像(早雲寺所蔵)
四代氏政も、自分が元気なうちに家督を子に譲りたいと考えており、天正八年(1580)八月、長男の氏直に譲り、隠居している。氏政の父氏康の隠居の年齢よりさらに若い四十三歳の隠居だった。
しかし、氏政の場合も、隠居とは名ばかりで、依然として実権を握っており、いろいろなことは、父氏政の意向によって進められていた。
氏直が家督を継いで二年後の天正十年は激動の年であった。その年三月に甲斐の武田氏が織田信長によって滅亡に追い込まれ、その信長も、六月二日、家臣の明智光秀に宿所の本能寺を襲われ、殺されてしまったからである。信長に好(よしみ)を通じていた氏政・氏直父子のことなので、信長のあとを継いだ秀吉にも、そのまま継続という形で好(よしみ)を通ずることも可能だった。ところが、氏政・氏直父子は、秀吉とは一線を画したのである。
それが、氏直の考えだったのか、実権を握っていた氏政の考えだったかはわからない。しかし、前後の事情から考えると、父氏政の意向だったような気がする。
では、後北条氏が、信長の天下統一事業には協力しながら、秀吉の天下統一事業への協力を拒否したのはなぜなのだろうか。