小机城址市民の森(横浜市港北区)
氏康は、前回みた通り、検地の施行、税制改革、「小田原衆所領役帳」の作成など、いくつものみるべき成果を残しているが「小田原評定」も特筆されるものである。
もっとも、今日、「小田原評定」といえば、天正十八年(1590)の豊臣秀吉による小田原征伐を前にして、城中で意見が対立し、いたずらに日を送ったとろから、「いつになっても結論の出ない会議」という意味が定着してしまっている。しかし、本来の「小田原評定」は、後北条氏が当主の専制政治でなく、重臣たちを評定衆とし、いわば民主的な合議政治を行ったことがルーツであった。
戦国大名というと、何となく「黙ってオレについてこい」式の武将のイメージが描かれるが後北条氏はそうではない。
ところで、氏康には、系図などによって判明するかぎりで八人の男子がいた。長男の新九郎は早逝してしまったが、あとの七人は無事に育ち、氏康はこの七人を実に有効に使っている。二男氏政を跡とりとして小田原城に残し、三男以下を外に出しているのである。その場合二つの出し方があって、一つは養子に押し込むやり方である。
三男氏照(うじてる)、四男氏邦(うじくに)、六男氏忠、八男氏秀がそのケースで、たとえば、氏照の場合をみると、氏康が武蔵の支配を完全にしようとしたとき、最後まで抵抗したのが大石定久であった。そこで氏康は、氏照を大石定久の養子とし、戦わずに大石領を傘下に組み込む方法をとった。氏邦、氏忠の場合もほぼ同様で、氏秀だけはややちがっていた。氏秀は氏康が越後の上杉謙信と同盟を結んだとき、同盟のあかしとして、つまり、人質として養子に出されていたのである。
二つの出し方のもう一つは、分かりやすい言い方をすれば、分店方式である。領国が広くなるにつれ、その支配をどうしていくかが大問題となり、氏康は、領国をいくつかの、「領」に分け、その「領」の拠点となる城に自分の子供たちを支城主として送りこんだのである。
五男の氏規が、はじめ三浦半島の三崎城主、のち、伊豆の韮山城主となり、七男の氏尭(うじたか)が小机(こづくえ)城主となっている。また、養子として送り込まれた子供たちも、やがて実権を握り、支城主として位置づけられているのである。
氏康はまた、女の子も自分の外交戦略の道具として上手に使っている。いわゆる政略結婚である。
氏康の長女は、天文二十三年(1554)七月、今川義元の長男氏真のところに嫁がされている。これは、「甲相駿三国同盟」の一環をなすもので、典型的な政略結婚だった。
ちなみに、この「甲相駿三国同盟」の締結により、氏康は背後を心配することなく、東へ、そしてさらに北へ兵を進めることができたのである。