北條氏政画像(早雲寺所蔵)
さらに、ちょうどそのころから、固い同盟と思われていた「甲相駿三国同盟」が揺らぎ始めた。そして、ついに氏政は武田信玄と手を切るのである。氏政の正室は信玄の娘であったが、離縁し、信玄のもとに帰っている。
永禄十二年(1569)十月には、信玄の大軍が小田原城を包囲し、そのあと、三増峠(みませとうげ)の戦いで両軍のはげしい戦闘があった。
こうした厳しい状況の中で、元亀二年(1571)十月、隠居していた氏康が死んだ。氏康は死の間際、「信玄と再び手を結べ」と遺言していたのである。氏政はその遺言通り、信玄との同盟を復活させている。
信玄が死んだ後、武田氏の家督は四男の勝頼が継いだ。氏政は、この勝頼とのきずなを強めようと、自分の妹を勝頼に嫁がせている。しかし、この外交政策は結論からいえば失敗だった。というのは、そのころすでに、武田氏の栄光に陰りがみられていたからである。そうした情勢判断の甘さ、もっといえば、的確な情報蒐集を怠ったことが、こののち、後北條氏にとってマイナスに作用することになる。
そしてもう一つ、永禄四年と同十二年の二回、戦国を代表する名将といってよい上杉謙信と武田信玄の攻撃を、氏政が小田原城に籠城してはねのけたということが、氏政の自信過剰につながってしまったという点をみておかなければならない。小田原城に対する過信の気持ちで、これが、のち、豊臣秀吉の攻撃を小田原城でくいとめようとする発想につながったのであろう。
なお、氏政は、そのあとで武田勝頼と手を切っている。上杉謙信死後、氏政の弟氏秀(景虎)と景勝の二人の養子があとを争ったとき、勝頼が景勝の側を応援したことを知ったからである。氏政は、織田信長に好(よしみ)を通じ、勝頼と戦っている。
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【出 典】広報おだわら(連載記事)
【元形態】紙媒体
【著者名】小和田哲男(静岡大学教授:歴史学)
【著作権/編集著作権】小田原市 1995-1998
1.早雲出自の謎 |
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平成7年5月15日号所収 |
3.北條早雲の伊豆討入 |
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4.小田原城奪取 |
平成7年7月15日号所収 |
5.二代氏網の北條改姓 |
平成7年8月15日号所収 |
6.三代氏康と合戦 |
平成7年9月15日号所収 |
7.氏康の領国経営 |
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8.北條氏の外交戦略 |
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9.四代氏政の時代 |
平成7年4月15日号所収 |
10.五代氏直の家督相続 |
平成8年1月15日号所収 |
11.小田原合戦 |
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12.北條五代が残したもの |
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