そして、翌十六年(1588)四月、秀吉は後陽成天皇を自分の城である聚楽第(じゅらくてい)に招き、全国の諸大名にも列席を命じた。このとき、上洛したかしないかが、秀吉に臣従するかしないかの踏み絵となったのである。この聚楽第行幸に、氏政・氏直父子は列席しなかった。ここで、秀吉の次のターゲットが後北条氏に絞られたのである。
そうこうするうちに、秀吉に小田原征伐の口実を与える事件が勃発した。天正十七年(1589)十月、上野国(群馬県)の沼田城代をつとめていた猪俣範直(いのまたのりなお)が、近くの名胡桃(くるみ)城を奪ってしまったのである。秀吉は、これをさきに出した「関東・奥両国惣無事令」違反としてとらえ、ついに十一月二十四日付で宣戦布告状をしたためている。
後北条氏側では、早くからこの日の来ることを想定し、小田原城やその他支城の修築などを行っていた。小田原城の、城と城下町を全部包みこんだ惣構(そうがまえ)、すなわち、大外郭ができたのもこのころである。また、武器、兵糧、弾薬などの準備も進められ、文字通りの臨戦態勢に入った。
氏政・氏直は村々の郷村の成人男子にも武装を命じ、後北条氏領国すべてでおよそ五万六千ほどの兵が動員された。この数字は、一戦国大名の動員数としては実に驚異的であった。しかし、秀吉の動員兵力はそれをはるかに上まわり、二十一万ないし二十二万といわれる大軍だった。
しかも、量だけでなく、兵の質も違っていた。後北条軍は、農民が主力だったのに、秀吉の方は、すでに兵農分離が済み、専業武士が主力だったのである。この大軍を前にして、氏政・氏直は小田原城に籠城する戦法をとることになった。氏政が、かつて、上杉謙信及び武田信玄の大軍を、小田原城に籠城して勝った経験を持っていたからである。
秀吉は、小田原全体を見下ろせる笠懸(かさがけ)山に対(たい)の城(しろ)として一つの城を築かせ、そこを本陣とした。これがいわゆる石垣山一夜城である。
小田原城包囲の戦いは天正十八年(1590)四月三日から始まり、結局、七月五日、氏直は開城して降伏した。戦国大名後北条氏の滅亡ということになる。秀吉は、氏政・氏照兄弟、それに老臣大道寺政繁、松田憲秀に切腹を命じ、氏直は高野山に追放された。