二代氏綱の北条改姓

二代氏綱の北条改姓

北条氏綱画像(早雲寺写し)

北条氏綱画像(早雲寺写し)

 北条早雲は、亡くなる一年前、すなわち永正十五年(1518)、家督を子の氏綱に譲っている。氏綱は長享元年(1487)の生まれなので、このとき三十二歳である。

 後北条氏の五代をみたとき、初代早雲が突出し、また、三代の氏康もめざましい活躍をしているため、間にはさまれた形の二代氏綱は、どちらかといえば影の薄い存在である。ところが、実際は、この氏綱が後北条氏発展の土台作りを行っていた。

 まず、軍事面では武蔵への進出が特筆される。大永(たいえい)四年(1524)正月早々、扇谷(おうぎがやつ)上杉朝興(ともおき)の重臣で、当時、江戸城の城主だった太田資高(すけたか)が氏綱に寝返ってきたのを好機とみて、武蔵の高輪原(たかなわはら)(東京都港区高輪)で扇谷上杉朝興と戦った。

 早雲死後、氏綱が初めて采配(さいはい)をふるった戦いだったが、結果は氏綱の勝利であった。後北条氏の力が武蔵にもおよびはじめた記念すべき戦いだった。


 そして、それと相前後してもう一つ重要な動きがあった。姓をそれまでの伊勢から北条に変えているのである。

 残念ながら、「今日より姓を伊勢から北条に変える」といった改姓宣言のようなものが見つかっていないので、具体的にいつから改姓したのかをまず明らかにしなければならない。

 現在のところ、佐脇栄智氏の論文「北条氏綱と北条改姓」(小川信先生古稀記念論集 日本中世政治社会の研究)によって、改姓の時期は大永三年(1523)六月十二日以降、同年九月十三日以前という二か月間に絞られている。

 では、この時期、なぜ改姓したのかが次に問題となる。従来は、武蔵に進出して、関東武士になじみのない伊勢氏より、鎌倉幕府の執権として関東武士たちに知名度の高かった北條氏にしたとする解釈が主流であったが、武蔵進出以前ということになると、別な考え方をしなければならなくなる。

 その点で佐脇氏は、相模支配の正当性を主張するためだったのではないかとしている。

 氏綱の晩年近く、天文(てんぶん)七年(1538)のことであるが、小弓(おゆみ)公方足利義明・里見義尭(よしたか)連合軍と、下総の国府台(こおのだい)で戦うということがあった。いわゆる第一次国府台の戦いで、この戦いに勝ったことで、後北条氏の力はさらに房総方面にまで伸びていくことになつた。

 それから少しして氏綱は病気になり、天文十年(1541)五月二十一日付で、子氏康に宛てて五ヵ条からなる遺言状をしたためている。さながら「帝王学」の伝授といった趣があり、例えば、第二条では

 その者の役に立つところを召しつかい、役ににたたざるところをつかわず候て、何れをも用に立て候をよき大将と申すなり。

と述べている。

 三代氏康の芽は二代氏綱の薫陶(くんとう)によって育てられた。
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