北条氏綱画像(早雲寺写し)
北条早雲は、亡くなる一年前、すなわち永正十五年(1518)、家督を子の氏綱に譲っている。氏綱は長享元年(1487)の生まれなので、このとき三十二歳である。
後北条氏の五代をみたとき、初代早雲が突出し、また、三代の氏康もめざましい活躍をしているため、間にはさまれた形の二代氏綱は、どちらかといえば影の薄い存在である。ところが、実際は、この氏綱が後北条氏発展の土台作りを行っていた。
まず、軍事面では武蔵への進出が特筆される。大永(たいえい)四年(1524)正月早々、扇谷(おうぎがやつ)上杉朝興(ともおき)の重臣で、当時、江戸城の城主だった太田資高(すけたか)が氏綱に寝返ってきたのを好機とみて、武蔵の高輪原(たかなわはら)(東京都港区高輪)で扇谷上杉朝興と戦った。
早雲死後、氏綱が初めて采配(さいはい)をふるった戦いだったが、結果は氏綱の勝利であった。後北条氏の力が武蔵にもおよびはじめた記念すべき戦いだった。