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2017年04月03日(月)

小田原市立図書館「文学資料で紐解く牧野信一」講演会

「牧野信一」展の立看板「牧野信一」展の立看板
 昨年は、小田原に生まれた作家・牧野信一(まきの しんいち)の生誕120年没後80年の年に当たりました。西海子(さいかち)小路にある「小田原文学館」では、春に特別展示『牧野信一とサクラの花びら』展、秋に特別展「牧野信一の心象風景」展など、多数の牧野信一記念展が開催されました。その一環として、小田原市立かもめ図書館で「文学資料で紐解く牧野信一」と題した講演会が開催されました。
牧野信一と小田原
 牧野信一は小田原に深い縁のある作家で、明治29年(1896)11月に小田原に生まれました。明治42年(1909)に県立第二中学校(現小田原高校)へ入学しました。同期に終生の友となる元小田原市長・鈴木十郎がいました。大正5年(1916)に早稲田大学へ入学し、英文学科で学びました。卒業して時事新報社雑誌部へ就職した大正8年の11月に同人誌「十三人」を創刊し、「爪」を発表しました。この作品が島崎藤村に激賞されて、牧野信一の名が世に知られるようになります。牧野信一は、大正13年に「父を売る子」、昭和6年「ゼーロン」、昭和9年「鬼涙村」など、幻想化された郷里小田原を舞台とした神話的物語を多数発表して「ギリシャ牧野」と評価されるなど活躍しましたが、39歳の若さで自ら命を絶ってしまいました。
牧野信一の資料展示のポスター牧野信一の資料展示のポスター
展示会「文学資料で紐解く牧野信一」
 2月下旬から3月上旬まで、鴨宮にある「小田原市立かもめ図書館」の玄関右側に特別展示コーナーがつくられて、牧野信一に関する資料が展示されました。
 小田原市立図書館には、牧野信一の遺稿となった「サクラの花びら」の自筆草稿など、第一級の資料が多数所蔵されています。そのため、牧野信一の文学の研究者は必ず小田原市立図書館を訪れて、その資料を紐解いて研究するのだそうです。
講演会タイトルのスライド講演会タイトルのスライド
柳沢孝子先生の講演会
 3月4日土曜日の午後、「文学資料で紐解く牧野信一」と題した講演会がかもめ図書館2階の視聴覚ホールで開催されました。講師は、長年に亘って牧野信一を研究されてきた開智国際大学教授の柳沢孝子先生です。柳沢先生も度々小田原市立図書館へ通って、牧野信一の資料を閲覧しながら研究に取り組んだそうです。本講演でも、サブタイトルにあるように図書館所蔵の資料を中心に、牧野信一の文学を語ってくださいました。

 講演会は、古矢図書館長の挨拶と司会で始まりました。柳沢先生のお話は、パワーポイントを使いながら、とても分かりやすいものでした。その内容を簡単にご紹介します。
講演会の風景講演会の風景
 牧野信一の作家としての時代は、3期に分けられるそうです。初期は、私小説的作風で、「父を売る子」などの父母に関する小説が多い時代です。中期は、昭和に入って幻想的な作風で、「ギリシャ牧野」と呼ばれた時代です。後期は、現実的な作風で、回想的作品が多い時代です。作家としてのテーマと作風を変化させてきました。
笑顔で語る柳沢先生笑顔で語る柳沢先生
 昭和2年に小田原に帰郷した牧野信一は、彫刻家・牧雅雄ら友人たちと交友しました。牧野の周りを取り巻いていた文学者たちもいました。そのことが、牧野の夢を解放して、小田原・足柄地方を舞台に、現実の風景の中に古代ギリシャや中世ヨーロッパのイメージを重ねた幻想的な作風を作り上げました。足柄地方の現実的な風景が、牧野の心象風景に昇華させていったのだと言えるのでしょう。
 牧野信一は、プラトンやゲーテ、ファウストやドン・キホーテが好きだったそうです。そのような古典作品が、牧野のイメージを膨らませたと言えるそうです。後期になると、ものの見方が深くなっていきます。深刻になっていくともいえましょう。自分自身も追い込んでいってしまったのでしょう。

 柳沢先生のお話で、牧野信一の作品と作風が、小田原・足柄地方の風景と牧野の周囲に集う友人たちとの関係から、牧野信一独自の世界を築かれていったのだ、と理解できました。小田原・足柄地方の豊かな自然と、そこに暮らす人々こそが、作家のイメージを紡ぎ、文化を生み出す土壌であるとの思いを感じられた講演会でした。(深野 彰 記)
 

2017/04/03 17:04 | 歴史

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