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2023年06月30日(金)

京都仙洞御所 州浜(南池)の一升石

明治維新から遡ること51年前の文化14年(1817年)。
私たちの小田原は、大久保彦左衛門を祖に持つ大久保家が治める箱根の関所等を抱える譜代の重要な藩でした。
文化14年当時の藩主は大久保忠真(ただざね)(生年1778-1837年没。藩主在位1796-1837年)。
忠真は京都所司代を、1815-1818年の3年あまりのあいだ務めています。
忠真の京都所司代の時に、光格天皇が仁孝天皇に譲位されて上皇となられ、上皇の住まいである仙洞御所の改修がなされました。その際に、京都所司代を務めていた大久保忠真の発案によって、小田原藩の海岸から京都に運ばれた石が、京都仙洞御所の南池の周りを飾る平べったい楕円の石です。
或る資料には「吉浜(現湯河原)の石」、別な資料には「小田原藩海岸の石」とも書かれています。
その数約十一万三千個。この個数は、小田原大久保藩の石高(こくだか)と同じ数です。
現在の湯河原吉浜海岸は砂浜ですが、当時は石の海岸であったのでしょうか。
筆者が初めて京都仙洞御所を訪れた55年前には「小田原押切海岸の石」と池の畔に小さな表示がありました。「切」という字を嫌って資料としては吉浜の「吉」を選んだのかもしれません。
因みにこれだけの数の石は、舟運を利用して京都に運ばれたと思われます。
小田原藩領であった押切海岸の近辺は深く、舟運に適しており中村川河口付近には「船着き」と呼ばれる古名もあります。関東大震災前まで北海道の昆布や、小田原で穫れた魚で作った油や、魚粉肥料を運ぶ基地の機能を持っていたと土地の古老の話です。今でも近隣には、「畳屋」「油屋」などの屋号が使われているお店があり、河口からすぐの二宮町には脇本陣跡があり、船宿もあったと伝えられています。
献上した石と同様の平べったい楕円の石が押切海岸や御幸の浜付近にはたくさんありますので、押切海岸を含む小田原の海岸から船出をしたものと考えられます。
重い石を入れた約2千俵もの物量を、険しい山、幅が広く深い川がある陸路を運んだとは思えません。相模湾を出て駿河湾を横切り、遠州灘、熊野灘、紀州潮岬から大坂湾に入り、淀川を遡り、鴨川へと運ばれたと思われます。苦労と浪漫を感じる石の旅です。
これ等の石は、御所に納めるゆえに石を真綿に包んで運ばれました。
一升石と一升の米一升石と一升の米
仙洞御所の南池に整然と並ぶ小田原から運ばれた石を「一升石」と呼んでいます。
石は10〜15cmの大きさの均一を保ち、この丸く平べったい石が南池の周りを飾っています。
十一万三千個もの形がそろい胡麻模様の石を集めるのは容易ではなく、それ故に藩政府は、「石1個を持参したら米一升と取り換える」と役人がお触れを出したとの言い伝えからくる名称です。
当時の貨幣で表すと米1升は約120文でした。現在では約1,450円でしょうか。文化文政期はお酒1升が約200文、豆腐1丁が約30文、旅籠の宿賃が約300文、人夫の日当が約250文、大工の日当が約500文でしたから、120文相当のお米は貴重なものだったと思います。
余談になりますが、小田原藩の藩主 大久保忠真は優秀でもあり、将軍 家斉からも気に入られた様子です。1796年に藩主を相続し、1800年には奏者番、1804年には寺社奉行兼務、1810年には大阪城代、1815年には京都所司代、1818年から没年の1837年まで老中首座を含めた要職を務めています。途切れることなく幕政の中枢の地位を占め、役務手当の増石はあったにしても、領国経営は苦しく財政難に陥っています。陥ったがゆえに二宮尊徳を重用して、財政再建の任にあたらせています。苦しい財政の中での「1升石」政策ですので、尚更に財政を圧迫したものと思われます。
後年に、小田原藩の「1升石」が並べられることになる京都仙洞御所は、寛永7年(1630年)に建立されました。幕府と朝廷の間に確執があった時代です。幕府は3代将軍徳川家光、朝廷は後水尾天皇の時代です。京都仙洞御所は嘉永7年(1854年)の大火により焼失しましたが、それ以降に再建されることはなく、現在では茶室や庭園が残っているのみです。
京都仙洞御所南池を飾る「1升石」も最近では汚れが目立ちはじめています。
小田原からの修学旅行生や、御所清掃奉仕団を組織して往年の綺麗な「1升石」を蘇らせたいと思うのは筆者だけでしょうか。

最後になりますが、≪御幸の浜≫の胡麻模様で平べったい石を京都仙洞御所に持ち運んでも、今はお米と交換が出来ません……。
押切のリュウ 記

2023/06/30 17:05 | 歴史

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