歌川広重(ひろしげ)
寛政9年〜安政5年(1797〜1858)
作画期 文政11年頃〜安政5年(1828〜58)
画系 歌川豊広門下 岡島林斎から狩野派、大岡雲峰から南画を学ぶ
画号 一幽斎 一遊斎 一立斎 立斎 歌重
本姓田中氏
江戸火消童心安藤源右衛門家に入婿、文政11年頃より役者絵・武者絵・美人風俗画などを描き始める。文政後期より風景画に手を染め、天保2年「一幽斎描き東都名所」シリーズを発表、天保3,4年の「東海道五十三次」(保永堂)によって風景浮世絵師の地位を確立し、以後諸国名所絵、江戸名所絵の傑作をつぎつぎと発表した。
広重の描く風景画は四季の変化に富む日本の風土を詩情豊かに表現し、今日も人々を魅了している。
(解説:岩崎宗純)
建久4年(1193)5月28日、曽我五郎時致と曽我十郎祐成の兄弟は、源頼朝が行った富士の巻狩で、亡き父河津三郎祐泰の仇工藤祐経を襲い、宿年の思いを果たした。この仇討事件は後に曽我物語として骨格を整え、江戸時代になると、謡曲・浄瑠璃・歌舞伎・仮名草紙などに取り上げられ、民衆の中に圧倒的な人気を得ていった。浮世絵の世界でも曽我狂言を演じた役者を描いた武者絵、曽我物語を画題とした武者絵・獲物語りなど枚挙にいとまがない。
広重の本図は、曽我物語を三十枚の揃物としてまとめたもので、上部を雲形に仕切り、その中に柳下亭種員が詞書を記している。人物画をあまり得意としない広重であるが、10の雪中祐経を狙う図、13の大磯に向かって兄弟が馬を走らせる図など、画趣に富んだ作品も見いだせる。なお広重は、本揃物のほかにも、曽我物語(四ツ切・二十枚揃・有田屋)を刊行している。
版元 伊場仙三郎